2010年8月5日木曜日

敗戦、貧困、ララ物資:上

はじめに
また今年も敗戦記念日の季節となりました。日本がアメリカと闘って惨敗したのが昭和20年8月15日、あれから65年の才月が過ぎ去り、今や少子高齢化が進み『無戦世代』が日本国民の大半を占める時代となり、戦争の悲惨さの実感が遠ざかり風化しようとしています。目下、戦争とは直接関係がない日本では経済不況が深刻な問題となっていますが、実際には、イラク、アフガニスタンでの闘いも経済危機と無関係ではありません。

今回は、普連土学園の大津光男財務理事から、敗戦後当時を物語る貴重な原稿を頂きました。『風化させられない』日本人の悲惨な日々を送っていた実態の一面は、戦中派はもちろん、特に戦後に生まれた方々に知っていただきたいのです。全文は3回連載でお送りいたします。編集;高橋経記(上は東京銀座一帯の焼け跡。下は焼け跡を片付ける東京都民。)

ララの活動と普連土学園
大津光男(おおつ みつお)


1. 敗戦

広島や長崎の悲劇は、毎年記憶に新しくされている。だが、真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争のもたらした日本国中至るところでの惨状も、現在では想像できないほど悲惨なものであった。

昭和20年(1945)8月15日天皇の玉音放送(ぎょくおんほうそう:註/この時点では昭和天皇裕仁は現人神と信じられていた。この4ヶ月半後に人間宣言をし、神格を放棄した。)で太平洋戦争が終結した以降、疲弊した農村の収穫は35年ぶりの大凶作で、平年作の3分の2に落ち込んだ。空爆や艦砲射撃により廃墟と化した主要都市では、工場の操業が停止し、円の切り替えでインフレが進んだ。多くの国民は乏しい金を工面して鈴なりの満員列車で必死に焼け残った農村に買出しに行ったり、闇市で品物を入手したりしていた。(右はドイツ大使館の瓦礫から見た議事堂)

都市部には、住居や衣服までを失い、食料は乏しくかつ貧しい、はたまた孤児にもなった被災者が多数いた。その半面、戦争の被害を受けずに儲けた悪徳商人も少数いた。そこに、海外から復員兵や引揚者が戻った。1日「2合1勺」の米の配給は滞りがちであった。(余談/闇の食品を入手することを潔しとしない清廉潔白な一部の人々が餓死したり、栄養失調に落ち入ったりした。気の毒だったが世間から余り同情されなかったようだ。)  

無条件降伏という無残な結果ではあったが、国民はいつ死に直面するかわからない戦争の恐怖や緊張感から解放された気分もあった。夜、しばしば停電があったものの灯火管制を受けずに電灯がつけられた。空襲警報の出ない夜が来た敗戦後は、食料が乏しくても子供にとっても大きな喜びだった。

戦後日本は、外国の軍隊による占領という厳しい状況下に置かれていた。日本政府を通じて占領政策を進めた連合国軍総司令部(General Headquarters、GHQ左の宮城外堀に面した第一生命ビルを占領 )による間接統治だった。

私は水戸市の進駐軍本部近くに住み、米国兵からチュウインガムをもらい子供心に嬉しく思った経験がある。ガムを噛んだのは生まれて初めてだった。街中をジープで走る進駐軍兵士からは、さほど厳しい威圧を感じることはなかった。 かかる困難に直面していた時期『りんごの歌(左の題名をクリックすると並木路子が唱うオリジナルが視聴できます)』が心をなごませる一面も出てきた。徐々に戦災から立ち直り、敗戦国日本の復興への道は開け始めていた。  

2. 戦勝国アメリカでの日本国民救済の機運

戦勝国アメリカ合衆国内では、終戦と共に日本国民の窮状を知ったアメリカやカナダの日系人、在留邦人の間に祖国救済の気運が高まっていった。盛岡出身で原敬(はら けい)の書生を務め、23歳で渡米した浅野七之助(あさの しちのすけ:註/日系ジャーナリストの草分け。日米新聞、日米時事などを発刊、彼の死後も後継者たちが発行し続けたが、残念ながら昨2009年9月10日を以て廃刊した)は、サンフランシスコで日本戦災難民救済を呼びかけた。

同志社大学総長であった湯浅八郎(ゆあさ はちろう:註/1909年7月11日生まれ、2005年9月11日死亡。湯浅の業績を讃えて建設された記念館が東京都三鷹市にある)は、辞職してアメリカにわたり開戦後も帰国せずニューヨークで日系人を励ましていたが、日本国民の窮状を察し救民の声を挙げた。これらの呼びかけが、時を経ずしてシカゴ在留の日系人たちにも拡がっていった。


一方、昭和20年(1945)12月には、早くもカナダ人でメソジスト派宣教師ジョージ・アーネスト・バット(George Ernest Bott:上の写真で左端に坐っているのが孤児たちと食事をするバット)博士の日本救援赴任が決定した。バットは大正10(1921)に初来日。宣教師として伝道の傍ら、都内日暮里(にっぽり)の愛隣団や根岸の根岸会館などで社会事業に従事していた。戦前、知る人からは西の賀川豊彦(かがわ とよひこ)、東のアーネスト・バットとも言われ、社会事業を推進したクリスチャンだった。彼が最初に日本への赴任を希望したのは、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)武士道を読み、日本という未知の国に魅了されたからでもあった。バットは、昭和21年(1946)1月、ニューヨークで開催されたアジア救援教会委員会にカナダの教会代表として出席、関係者と日本救済計画の検討を開始した。その結果、彼は同年3月22日、アメリカとカナダのメソジスト派、長老派、組合派、バプテスト派の各派合同によって組織された教会世界奉仕団の代表としてアメリカ福音教会宣教師ポール・スティーブン・メイヤー(Paul Stephen Mayer)と共に貨物船シー・サーペント号でサンフランシスコから出港、4月15日に横浜港に着いたとされている。だが実際には、彼は宣教師としてではなく、GHQのダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur:左の写真)の特別政治顧問として大佐の資格で、軍用機で単身秘密裏に来日していたのだった(三木弘秘話戦後日本の危機』1996年5月『火の柱』所収)。彼は、直ちに日本国民の窮状の調査を開始。救済計画の準備に着手した。また、マッカーサー元帥と救済運動についての打ち合わせも行っていたのである。

ほぼ同じころ、戦前来日していたカトリックのヘンリー・フェルセッカー(Henry J. Felsecker)神父が再来日し、関西方面での布教や救済活動を展開していた。フェルセッカー神父は昭和8年(1933)8月に初めて来日して以来、大津教会、高野教会で宣教活動を行っていた神父だった。(『』へつづく)

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

敗北による衣食住全ての不足を体験した昭和ヒト桁世代の私でも『喉元過ぎれば、、、』で辛かった記憶が遠ざかっているのに愕然とすることがあります。『風化』は平和の敵と思い、我々の体験を次世代に伝えるつもりです。