そうした環境の中で、日系二世のキャシー・ヤマダが書いた小さな記事がカリフォルニアのサンルイス.オビスポ紙(San Luis Obispo Press)に掲載され光っていました。今回は、その記事をご紹介いたします。
彼女は夫と共に32年間ブラジルの日系移民の布教に従事した後引退し、現在はアロヨ.グランデ(Arroyo Grande)に住み余生を送っています。-------編集、高橋-------
第二次世界大戦で奮戦した二世たち
キャシー・ヤマダ(Cathy Yamada)

戦後何年も経ってから私の父はやっとアメリカの市民権を取得し、私の子供たちは偏見や差別に苦渋することなく自分達が望む道に進むことができるようになりました。


第442連隊に所属していたマスダ・カズオ軍曹は、イタリーのカッシノ(Cassino)で戦死した後、優秀功労賞の勲章が授与されました。でも軍隊の規則に従い、ジョセフ・スティルウエル将軍(General Joseph Stillwell)は、移民の母親にでなく、アメリカで生まれたカズオの妹に勲章を手渡したのです。(右の写真は、上記と同様の状況だが、該当の人物であるかどうかは確認できなかった)

この功績が認められ、ジョン・ダァルキスト将軍(General John Dahlquist)が戦場へ赴き、11月12日に表彰式が行われました。そこに整列した第100と第442の合同連隊は、本来なら4500名の内500名だけでした。それに気が付いた将軍は「他の兵隊はどこへ行ったのだ?」と不満をもらしたのです。合同連隊の指揮官だったヴァージル・ミラー大佐(Colonel Virgil Miller)は頬に涙を流しながら「閣下、これが全員なのです。」と答えたということです。


こうした二世兵士たちが獲得した日本軍の情報はアメリカ軍の作戦を有利に導き、戦闘期間の短縮を可能にしたと言われています。チャールス・ウイロビー将軍(General Charles Willoghby)は、これで起こりうる死傷者の数を大巾に減らすことができた、と認めています。
ジョージとカルビンのサイトウ兄弟は、共に二世兵として入隊しました。ご他聞に洩れず、彼らの家族は収容所暮らしを余儀なくされていました。
カルビンが戦死した時、ジョージは収容所にいる父親に手紙を書き送りました。その一部には「、、、カルビンの活躍のお陰で何人もの兵隊が救われました。、、、お父さん、今僕ら兄弟が入隊したことを不満に思っていた貴方を説得するのに最適な時だとは思えません。でもカルビンが命を捧げた今、僕の胸の中だけに収めている訳にいかない事があるんです。僕たちが志願して入隊したことを『愚かな間違いだ』などと誰にも言わせないでください。僕は、この戦闘に参加して以来、時が経過するにつれ、過去の事(差別され迫害を受けたこと)がどんなに辛かったとしても、僕らの決心は正しかった、と確信が持てるようになったのです。アメリカという国は本当に素晴らしい国です。だから、もう決して僕らの決断を非難しないでください」と訴えていました。
悲しいことに、ジョージ・サイトウは、この手紙を送った3ヶ月後に戦死しました。
今日、我々は非常に不安定な国際情勢の中で生きています。私はこうした社会情勢にあってこそ、軍隊の活躍や犠牲者のお陰で我々の安全が守られているということを真剣に考える必要があると思います。第二次大戦の折りに命を賭けて我々の自由(freedom)を守って死傷した軍人たちに栄冠を捧げます。
今年、 2010年のメモリアル・デーに当たって、私の心は、国の為に命を捧げた多くのジョージ達やカルビン達に対する感謝の気持ちでいっぱいです。
『二世部隊』に敬礼。