2009年4月13日月曜日

女子教育の先駆者たち:本論

新渡戸稲造と津田梅子との交流
キリスト教フレンド派日本伝道の側面から
大津光男(おおつ みつお)千葉在住
[筆者は、学校法人普連土学園財務理事・資料室長および、キリスト友会日本年会財務・会計委員長]
[編集から註:筆者の外人名の表記は、基本的にヘボン式に準拠していますが、例外的に言い慣らされた表記に従っている場合もあります。例えば同じAnnaでも、一人はアンナとし、他の一人はアナと呼び慣れたカタカナ表記を使い分けています。いずれもそれなりに正しい表記として定着している
を尊重している、とのことです。]

はじめに
津田梅子
の業績を調査中の高橋経さんから、梅子(1864~1929)と新渡戸稲造(1862~1933)が同時期、共に女子教育に尽力している、二人はどこかで触れ合って影響し合ったような気がするがどんなものか、と質問を受けた。筆者は「新渡戸稲造と津田塾大学」と題する小論のあることを紹介し「二人のつながりは大いにある」と答えた。
そこで、いささか長い引用となるが「新渡戸稲造の世界」第16号に掲載された「新渡戸稲造と津田塾大学」という藤井茂の小論(原文は縦書き)を、そのまま先ず紹介しておきたい。
(太文字は筆者の要点)

「新渡戸稲造と女子教育といえば、すぐに東京女子大学を思い浮かべる人が多いかもしれない。確かに新渡戸は、この大学の創立1918年(大正7年)4月に参画し初代の学長になった生みの親ということもあって、この大学では『新渡戸稲造研究』を出版していて新渡戸理解の必須の書物になっているが、実はもう一つ、彼が約30年にわたって深く関わった女子の学校として津田塾大学(女子英学塾として1900年[明治33年]7月創立)の存在も忘れられない。
新渡戸とこの大学との関係は、創立間もない明治34年2月、彼が40歳の時だった。これは東京女子大学との関係よりもよほど古い。新渡戸がアメリカで『武士道』を出版して帰国したのが同年1月末だったから、日本についた直後のことだった。すぐ津田梅子から招かれ、この英学塾で『仏国婦人につきて』という演題で講演し、その後間もなく『武士道』の3回連続講演も行っている。このとき以来、新渡戸はその深い教養と女子教育の理解もかわれて、津田女史の良き助言者になった。新渡戸の参画は、この英学塾を特色あるものとしたが、帰国早々のこれらの講演が、やがて後に彼が『塾の伯父』と自称するほどの深い関係となる始まりとなった。」
(以下略)


上記小論を見ると、筆者が太文字にした「新渡戸とこの大学との関係は、創立間もない1901年(明治34年)2月、彼が40歳の時だった」云々、という文章は、あたかもそれまでは、両者が全く旧知ではなかったかのごとく、断定的に記載しているように読めてしまう。 しかるに本当に両者は「その時」に至るまで何も知らない間柄だったのだろうか?

もとより拙稿は、教育論ではない。また、この(2009年)3月末で終了したNHKテレビの番組その時歴史が動いた」でもないが、上記の「その時」に関して、そこに至るまでの稲造と梅子の二人の交流に関連する軌跡、乃至はその背景となっている不思議な縁について、筆者がこれまで「普連土学園研究紀要」や「新渡戸稲造研究」等にとりとめもなく散発的に発表してきた何篇かから、キリスト教フレンド派(クエーカー、キリスト友会等、以下文脈によって使い分けるが同じ意味)の日本への伝道と女子教育への貢献という側面を抽出して、二人の交流の「その時」までをまとめておくことにしたい。

ハーツホーン、ブレスウェイト、ホイットニーと勝海舟、津田仙との関係
津田梅子の父津田仙(1837~1908 右の写真)は、幕末佐倉藩士であった。彼は、1867年(慶應3年)、勘定吟味役小野友五郎(1817~1898)の随員として福澤諭吉(1834~1901)らと米国に赴いた。渡米中、津田仙が特に感銘を受けたのは、農業が学理的に行われていること、国民が四民平等で何ら尊卑の区別がないことの二点だった。また、1872(明治5)年、6歳の二女梅子の留学を考え、西欧の文化に触れさせたのも、この訪米の感銘によるものだった。

津田仙は、その最初の訪米の折ヘンリー・ハーツホーン(Henry Hartshorne 1820~1897)のEssentials of the Principles and Practice of Medicine (1867年版)を土産として持ち帰った。この医学書は、1875年(明治8年)、桑田衡平訳で「内科要摘」として出版され、当時の日本で重宝がられた。後にはこの翻訳の機縁もあり、1893年(明治26年)10月2日、初来日したクエーカーのヘンリー・ハーツホーン、アナ・ハーツホーン(Anna Hartshorne)父娘と、津田仙、梅子父娘との親交が始まった。
  ハーツホーン父娘の初来日時には、イギリス人クエーカーのジョージ・ブレスウェイト(George Braithwaite: 1855~1931 右下の写真)夫妻も同船していた。

ジョージ・ブレスウェイトは、英国聖書教会の日本責任者となり、キリスト教書類会社を経営した人物で、初来日は、1886年(明治19年)5月21日だった。「透谷全集第三巻」693頁にその初来日を「1886年の早春であった」とするのは、何かの間違いだろう。
この船に乗り合わせる前、北村透谷(1868~1894)を通訳としてフレンド派の茨城県下水戸地方伝道に果たしたブレスウェイトの役割は大きい。一方、築地の路傍伝道で山室軍平を後年救世軍に導いたのも彼であり、1889年(明治22年)8月、英国平和会の前書記ウイリアム・ジョーンズ(William Jones: 1826~1899)が、銀座木挽町の厚生館(明治会堂)で、日本初の平和講演会を行った際に準備したもの彼だった。
  この平和講演会を契機に、同年11月、ジョージ・ブレスウェイト、加藤萬治石塚伊吉、北村門太郎(透谷)らが日本平和会を設立して、雑誌「平和」を発行し、戦争反対とキリスト教の伝道を志した。「平和」の編集・発行を、加藤萬治と北村透谷が担当し、この年の暮に、水戸で伝道を目的とした講演を行ったのである。
  さらに平和活動に関して言えば、1891年(明治24年)5月、ジョージ・ブレスウェイトは、懸賞問題平和雑誌(Prize Peace Tracts)を横浜製紙分社から発行した。これは全部で12号からなっている。たとえば第1号の「平和の白き羽」では、アメリカの先住民族が武器を持たない農夫の家に「白い羽」を目印に付けて行った話やペンシルバニア州建国の父ウイリアム・ペン(William Penn 左の写真)など非戦平和主義のクエーカーについて書いている。

ところで、ハーツホーンの家系は、ジョージ・フォックス(George Fox: 1624~1691)の時代にアメリカに渡ったクエーカーであった。また、ブレスウェイト家も同時代からのイギリスのクエーカーだった。
   ジョージ・ブレスウェイトの父ジョゼフ・ベヴァン・ブレスウェイト(Joseph P. Braithwaite: 1818~1905、以下、ミドル・ネーム省略)は、1844年(天保14年)にフレンド派のミニスター(巡回伝道師)となり、母アンナと同じように登録された。ジョゼフは、1851年(嘉永4年)にマーサ・ジレット(Martha Gillet)と結婚したが、彼女もミニスターとして活躍した熱心なクエーカーだった。
  ジョゼフ・ブレスウェイトは1865年(慶応元年)に最初の訪米を行った。彼は、この最初の訪米でフィラデルフィアのウイスター・モリス(Wistar Morris)邸を訪ね、また、フレンド派のハバフォード大学(Haverford College)にも立ち寄った。ヘンリー・ハーツホーンは同校の卒業生で、医師でもあった。
  19世紀になると、世界的な福音主義の浸透によってイギリスのクエーカーは、1869年(明治2年)ロンドン年会総会で海外伝道の必要性を議論した。それによってジョゼフ・ブレスウェイトは1876年、78年、84年、87年にも渡米した他、アイルランド、ヨーロッパ諸国、カナダその他の国々を回り、英国聖書協会からの派遣ではトルコ、シリア、エジプト、小アジアまで足を伸ばした。彼は、後年、津田梅子が留学し、ヘンリー・ハーツホーンが弔辞を読んだフレンド派のブリンモア大学(Bryn Mawr College)の初代学長ジェームズ・E・ローズ(James E. Rhoads: 1828~1895)とも親しくなり、1887年にインディアナ州リッチモンドで開かれたクエーカーの会議でリーダーになった。そこで彼の起草した信仰箇条が「リッチモンド信条」とされ、これを承認したその地方の年会が1902年(明治35年)に「五年会」を組織するようになった。
  しかし、リッチモンド信条は、プロテスタントの信仰に近く、彼の属したロンドン年会では、この信条を歓迎しなかった。フィラデルフィア正統派年会にも積極的には支持されず、ヒクサイト(Hicksight Society of Friends)に属する年会からは一切受け付けられなかった。だが、日本の基督友会は、1894年(明治27年)、日本年会を組織するに際して、これを参考にしたのである。

  ジョージ・ブレスウェイトの実姉がメアリー・カロライン・ブレスウェイト(Mary Caroline Braithwaite: 1857~1935)だった。彼女は、1885年(明治18年)12月29日、ロンドンのブレスウェイト家でウイリス・ノートン・ホイットニー(Willis Norton Whitney: 1855~1918; 以下、ミド
ル・ネーム省略)と結婚し、来日した。 ウイリス・ホイットニーは、父ウイリアム((William: 1825~1882 右の写真:ウイリスの父と二人の妹)、母アンナ(Anna: 1834~1883)の長男として、1855年(安政2年)10月18日、アメリカのニュージャージー州ニューアークに生まれた。
  ウイリス・ホイットニーが、両親や妹二人と共に、オーシャニック号で初めて横浜に着いたのは、1875年(明治8年)8月6日のことだった。日本に到着した一家にとっては、ウイリアムが校長になるはずの約束だった公立の商法講習所が、予め設立されていなかったので生活は苦しかった。だが、9月に森有礼(1847~1889)の私立学校である商法講習所の教師に就
いた。その商法講習所は、森の依頼を受けた勝海舟(1823~1899 左の写真)の支援や福澤諭吉の尽力もあって、私立として開校されたものだった。けれども、森は、同年11月に清国(現中国)駐在公使として赴任する際、講習所を東京会議所に寄付した。その一年後の1876年(明治9年)9月には、商法講習所の所管が東京府に移されて、これが現在の一橋大学の前身となったのである。
   一方、そのためにウイリアム・ホイットニーは解雇された。津田仙は、ウイリアムに収入を得させるため、自ら経営していた銀座の簿記夜学校にウイリアムを教師として雇った。それによって、彼は英学、簿記法、算術を1879年(明治12年)12月の帰国時まで教えられることになり、一家は糊口をしのぐことができたのである。また、ウイリスの母アンナは、日曜の夜ごとに、工部大学や開成学校の教師を招いては説教会を開いたが、その会には勝海舟や津田仙などの子女たちも列席していた。

ウイリアムの長男ウイリス・ホイットニーは、電気工学を学んでいたが、来日後、母アンナの強い希望により横浜在住の二人の外国人医師について医学の研究を始めた。だが、なお家計は苦しく、1878年(明治11年)8月から、彼は家計を助けるために金沢の啓明学校(現在の金沢大学の前身の一つ)の教長となって赴任した。彼は、約一年後、東京医学校(後の東大医学部)でドイツ医学を教えたエルイン・ベルツ(1849~1913)のもとで、最初のアメリカ人学生として医学()眼科)を学び、東大の外国人留学生第一号となった。

  ウイリス・ホイットニーが、眼科を専攻したのは、日本人には眼疾が多いことに驚かされたからだった。ベルツは後年、1898年(明治31年)7月、新渡戸稲造に対して、病気の回復のためには札幌農学校を辞任して静養するようにと勧めた一人でもあった。新渡戸稲造はその勧めに従って伊香保温泉や更には渡米してカリフォルニアで静養している間に『武士道』を著したのである。

ウイリス・ホイットニーは、東京大学で履修を始めたが、さらに母国での正式な医学の学位を得るため、1879年(明治12年)12月には帰国することになった。父のウイリアム・コグスウエル・ホイットニー(William Cogswell Whitney)が同年12月12日に単身で太平洋を渡り、ウイリスは母アンナと二人の妹と一緒に翌1880年(明治13年)1月26日に横浜を発ち、インド洋・地中海を経てロンドンに寄り、その年の夏にフィラデルフィアに着いた。一家のこの長途のために旅費を工面したのが勝海舟だった。
  ウイリス・ホイットニーは、1881年(明治14年)にペンシルバニア大学でドクターの学位を得たので、1882年(明治15年)に一家は再来日することになった。そこでフィラデルフィアのモリス夫人メアリー(Mary Morris)に会い、訪日の旅費をモリスに負担してもらった。モリス夫人は、これより先、女子学院創設に関わったマリア・ツルー夫人(1840~1896)の来日に際して、援助も行っている。1874年(明治7年)のことだった。モリス夫人の女子教育に対する関心には、すでに明治初年から高いものがあったのである。


ところで、ホイットニー一家には、再来日の途中、大きな不幸が待っていた。父のウイリアム・ホイットニーがロンドンで客死したからである。その時一家を助けたのが、ジョゼフ・ブレスウェイトだった。ウイリスは父をロンドンのハムプステッド墓地(Hampstead)に葬って、母や妹二人と共に1882年(明治15年)11月18日、再び横浜に着いた。ウイリス27歳、クララ(Clara)22歳、アディ(Adelain)14歳だった。ジョゼフ・コサンド(Joseph Cosand: 1852~1932)夫妻の来日に先立つ三年前のことである。彼らが早速、11月20日に勝海舟を訪ねたところ、元の家に戻ってはどうか、と勧められた母子は赤坂の海舟の邸内に住むことになった。

  ところが、翌1883年(明治16年)4月17日、ウイリス・ホイットニー兄妹の母アンナが、父ウイリアムの後を追うかのように、内臓疾患で痛みに苦しめられながら赤坂で死去。青山霊園外人墓地第一号地に埋葬された。49歳だった。墓碑には勝海舟の手で「骸化土霊帰天 ホイト子―氏 親友 勝安芳拝誌 “The just shall live by faith.”」、裏面に「義人必由信而得生 録聖書之語」と刻されている。
  墓で言えば、そのすぐ隣にジョージ・ブレスウェイト夫妻の墓があり、少し離れたところには1897年()2月11日に急逝したヘンリー・ハーツホーンの「津田塾大学恩人Anna C. Hartshorneの父」と墓前に刻んだ墓がある。また、通路の反対側には、新渡戸稲造の叔父で養父の太田時敏の墓もある。

さて、ウイリス・ホイットニーは、1883年(明治16年)、在東京米国公使館通訳に任命されたが、一方では医者としての活躍も始めた。その3年後の1886年(明治19年)には、母アンナの死に贈られた弔慰金や、親戚、朋友、内外の慈善家からの義捐金をもとに、勝海舟から赤坂氷川町の土地を購入した。そこで医療活動をも開始した。赤坂病院である。公使館在勤中は明治中期の日本の指導的政治家たちと面識を得、1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布の日には、彼もアメリカ外交団の一員として夕べの大宴会に出席した。こうした在東京米国公使館通訳の期間は、12年間に及んだ。
  この間、彼は医者として1884年(明治17年)、英文で『日本医学史』を著した。これは富士川游の『日本医学史』(明治36年刊)に先立つものとして評価されている。同年10月からは、現慈恵医大の前身である略称「成医会」(「日本医学発展協会」英文名Society for the Advancement of Medical Science in Japan)の幹事となった。1885年(明治18年)1月、成医会文庫の設立に際しては、唯一の外国人として参画している。1886年(明治19年)発行の『ヘボン辞典』第三版では、宣教師O・H・ギューリックと共にウイリス・ホイットニーが改訂者になった。1888年(明治21年)11月には『ヘボン辞典の漢字索引』を著し、日本語の名詞を漢字の部首で並べ、それが『ヘボン辞典』第四版の何頁にあるかを示した。これによって、彼は来日していた宣教師の日本語研究の手間を省くことができるようにした。そのための貢献にも大きな足跡を残している。

  ウイリス・ホイットニーの公使館通訳業務の一環として、宣教師を含めて日本国内を旅行する外国人のために許可証を発行する役目もあった。そこで彼は、1889年(明治22年)6月『日本における主要道路、主要都市、郵便局簡易辞典』を丸善商社商店から発売した。同著の編集は、日本国内に不案内な外国人に対する援助及び福音を広めることの助力を目的としていた。ウイリス・ホイットニーは、これらの二冊に加えて、多年にわたり主要医学雑誌に寄稿したり、日本の各医学雑誌やワシントンの国務省に論説を提出したりしていた。

  片や、467頁に及ぶ『日本における医学進歩史摘要』を著し『日本及び西洋における医学進歩に関係または影響する主要事件比較表』や中国と日本の医書の目録を「漢英両語」で挿入した。いずれも、ほぼ4年の間に出版されている。それは、超人的な働きであった。

  また他方の業績として、日本の大都市から離れた地方の中学校などへ、英米やカナダから、お雇い外国人教師を招く計画が在日宣教師の間で起った時、ウイリス・ホイットニーは、アメリカ在日公使館勤務の通訳であったところから、米国YMCAを通じて、斡旋の努力を惜しまなかったこともある。この計画によって、1888年(明治21年)米国から、若い3名の大学卒業生が来日した。以来、明治末年までに百名近くの外国人教師が、日本の英語教育に従事、語学力の向上に尽力した。
  
新渡戸稲造は、ウイリス・ホイットニーのこれらの働きを知っていた。そこで、1890年(明治23年)に著した『日米関係史』第四章『日本におけるアメリカ人およびアメリカの影響』
『科学上の貢献』に、医師が布教活動に実りあるものとなる例として「日本における医師団の中で、いずれの伝道団体にも入っていない独立の人」二名を挙げ、その一人にウイリス・ホイットニーの名を掲げている。
  こうした働きをしていたウイリス・ホイットニーが、1895年(明治28年)に通訳職を辞したのは、残りの全生涯を医療伝道事業に捧げるためだった。

  さらになお一方では、ウイリスの上の妹クララ(右の写真)は勝海舟の三男梶梅太郎と国際結婚して『クララの明治日記』を残している。下の妹アデレードは『聖書之友』を発行することになり、1884年(明治17年)1月1日から『聖書之友日課表』を作った。これを最後まで助けたのが津田仙その人だった。

内村鑑三、新渡戸稲造、津田仙とジョセフ・コサンドとの関係

閑話休題。明治初期の洋学者グループ明六社社員の一人でもあった津田仙は、明治維新後、1871年(明治4年)麻布本村町に土地を購入、西洋野菜の栽培を始めた。仙と初子夫妻は、1875年(明治8年)1月3日、宣教師ジュリアス・ソーパーから洗礼を受け、東京で最初のメソジスト信者となった。同年、彼は学農社農学校を麻布本村町に設立、農業により質実有徳な人物の養成に努め始めた。
  新渡戸稲造の兄道郎(1859~1884)も生徒の一人として学農社農学校で学んだ。一方、内村鑑三(1861~1930 左の写真)は、1883年(明治16年)5月から10月まで同校の講師となった。内村は、津田仙を介して、前記のように勝海舟の邸内にあった赤坂病院の眼科医で米国公使館通訳のウイリス・ホイットニーから生理学を学んでいた。それによって内村は、渡米留学に際してウイリス・ホイットニーからフィラデルフィアのクエーカー、ウイスター・モリスへの紹介を得ている。
  1884年(明治17年)に渡米した内村鑑三は、ウイスター・モリスの知遇を得て、翌年からペンシルバニアの知的障害者の施設で働き始め、またモリス夫人の主催していた聖書研究会にも加わった。


新渡戸稲造は、札幌農学校に第二期生として入学したが、1878年(明治11年)6月2日にメソジスト派宣教師M.C.ハリス(M.C. Harris)により同期の内村鑑三らと共に洗礼を受けた。だがその後、1880年(明治13年)7月、最愛の母せきの死に目に合えなかったことに対して良心の呵責を覚え、精神的に悩んだ。しかし、生涯の親友となった内村の友情に励まされて病気療養のために上京した新渡戸稲造は、偶然宣教師M・C・ハリスの蔵書からトー
マス・カーライル(Thomas Carlyle: 1795~1881 右の写真)の『衣装哲学(Sator Resartus Project Gutenberg)』に巡り会う。それを譲り受けて何度も何度も繰り返して読み、カーライル自身の神あるいは聖霊、何者かの声を聞くという神秘的な体験や、クエーカーの始祖ジョージ・フォックスの信仰とも出会った。そして、1881年(明治14年)札幌農学校を卒業後、北海道開拓使御用掛となった。
   けれども、向学心の強い新渡戸稲造(左の写真)は、1883年(明治16年)9月、東京大学に入学して、もっぱら英文学、理財、統計学を修業したが飽き足らず一年で退学、1884年(明治17年)、「太平洋の橋」となるべくアメリカに私費留学。アレゲニー大学(Allegany)に入学し、一月ほどでボルティモア市(Baltimore)のジョンズ・ホプキンズ大学(Johns Hopkins)に転学した。それにより、クエーカーとの出会いがもたらされた。ボルティモアでフレンド派の礼拝会に参加した彼は、1886年(明治19年)12月、ボルティモア月会の会員として受け入れられた。日本人友会徒(クエーカー)第一号の誕生となったのである。
   新渡戸稲造には留学後、1885年(明治18年)6月10日付でクエーカーのマーガレット・W・ヘインズ夫人(Margaret W. Haines)に宛てた書簡がある。その書簡にもよって、フィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会(Women's Foreign Missionary Association of Friends of Philadelphia)の会合がモリス邸で開かれて、そこに招かれた内村鑑三と新渡戸稲造の建言によって、アメリカ国内のクエーカーが日本への伝道と教育に強い関心を持つに至るのである。

ヘンリー・ハーツホーンは、有能な医者であり立派な教育者でもあったが、1873年~1876年、1881年~1894年の計13年間『フレンズ・レヴュー』の編集長をしていた。そこで彼は、新渡戸稲造のその書簡を取上げた。そして、同年8月15日発刊の『フレンズ・レヴュー』第39巻第2号に『日本の求めているもの』と題して掲載した。
  これを受けて、フィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会が日本へ派遣した最初のクエーカー宣教師ジョセフ・コサンドに面接した日本人は、内村鑑三であった。 コサンド夫妻(左の写真)は、1885年(明治18年)11月、サンフランシスコを出発、12月1日に横浜に上陸した。クララとアデレードのウイリスの二人の妹がコサンド夫妻を出迎え、たまたまウイリス・ホイットニーが結婚するために渡英していた赤坂の留守宅に旅装を解いた。翌1886年(明治19年)2月には、コサンド夫妻は麻布新堀町の津田仙の邸内に居室を借りて、直ちに伝道事業を始めた。新婚のウイリス・ホイットニー夫妻がイギリスから来日したのは、同年2月20日だった。姉の初来日は弟ジョージ・ブレスウェイトよりも3カ月早かった。

一方、アメリカに留学中の新渡戸稲造は、その1886年(明治19年)1月30日発行の『フレンズ・レヴュー』第39巻26号に「友会の日本伝道」と題して、コサンド夫妻の日本到着後、心得るべきことを寄稿している。
  さらに新渡戸稲造は、ドイツ留学に出発する直前、1887年(明治20年)3月27日にフィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会に宛てて書簡を送った。その書状は同年7月23日付『インターチェンジ』第3巻第7号に『手紙』と題して掲載された。これが新渡戸稲造の女子教育への考え方の根幹をなし、現在の普連土学園の設立に至る意見である。ここに佐藤全弘訳の全文を「新渡戸稲造全集」第22巻から引用しておくことにしたい。


『インターチェンジ』寄稿文『手紙』

以下の手紙はフィラデルフィア友会婦人外国伝道協会から、掲載するよう送られてきたものである。太田稲造の書いたものだから、わがボルティモア友会徒にとっては、とくに興味のあるものであろう。――編集者


敬愛する友会徒の皆さま フィラデルフィア友会婦人外国伝道協会で、日本に女学校を設立しようという提案があると聞いて、嬉しく思います。今、わが国で、それ以上にあなた方の注意とご努力を必要とするキリスト者の活動分野は、ほとんどないと思います。 どこでも必要とされる女子教育の一般的理由に加えて、日本ではそれを特にきわめて重要とする特別の理由がたくさんあります。そのいくつかをあげます。
  • 一、女性の地位の向上は今や日本で最大の社会問題です。
  • 二、外国語とりわけ英語の勉強は、これまで青年男子が行なってきましたが、近い将来、外国との交際がもっと密接になるため、青年女子の間にもますます広まってきています。
  • 三、われわれが西洋諸国と交わって以来行なわれた、わが風俗習慣上の多くの変化から、青年女子にこれらの問題についてその蒙を啓く学校が、どうしても必要となっています。
  • 四、フレンドの物の見方が、その信徒につちかう性格、つまり、とりわけ生活の平静と簡素は、わが国民にもとくに尊重されるものですから、もしフレンドの学校が設立されれば、これまでどの派のキリスト教の学校も充たしていない場を充たすことでしょう。
  • 五、キリスト者の母親を育成することは、教育の影響が全く不可知論的な所では、並はずれて重要です。このため、私は、日本に女学校を建てようというあなた方の提案を、最も時宜にかなった知恵と愛の働きと考えます。願わくは、その知恵と愛がその仕事におけるあなた方の進路の一歩一歩のしるしとなりますように。
日本にはすでに若い女性のための学校はたくさんあります。直接政府の監督下にある学校は、学風は非宗教的であり、個人が企画した学校は、適当な設備が欠けており、いろんな外国伝道団体が創設し運営しているものは、往々にして国民性を奪い去る傾向があります。
  
あなた方がご提案中の学校のカリキュラムや規定を、わが女性を忠実な『日本人キリスト者』とするだけでなく、また熱心な『キリスト者日本人』ともなるよう教育するように、定めて下さいませんか。もしその学校の制度なり性格なりがまだきっちりと決まっていないのなら、私が久しく抱きつづけてきた考えを述べさせて下さいませんでしょうか。
  
友会のすぐれた人物の生涯をいくつか読んでいて、私は、友会の信仰が霊的であるのと同じくらい、その仕事が本質的に実際的であったという事実に心を打たれました。そうだとすれば、若い女性が単につつましい娘、思慮ある妻、注意深い母となるだけでなく、看護婦、病院の付添婦、慈善団体・矯正団体の主事などにもなるにふさわしいようなコースを含めれば、フレンドの学校とならないでしょうか。
  こういう教育課程は、どの学校でもまだ新しい試みでしょう。しかし、わが国ではこういう課程が必要だということを、友会徒の方々が考慮して下さるよう望みます。といっても、計画中の学校の教育が主として博愛実践の学科でできていて、普通の研究部門は無視してよいと言うつもりはありません。もしこういう課程が導入されれば、若人の眼を他人の必要とするところへ開き、若人を外の世界と接触させ、その同情と関心を国民全体と結びつけ、外国からの感化を受けて育った若い女性にありがちの、国民性喪失の危険を未然に防ぐという長所をもつであろう、と言いたいのです。

  親愛なる友よ、この手紙を書いてあなた方の忍耐をあまりわずらわしはしなかったらよいのにと思います。私の宗教的関心は、フレンドの使命の成功にほかなりませんから、失礼をもかえりみず、この大事で関心をひく問題について、あなた方にお便りした次第です。 その栄光のためにあなた方がこの重責ある仕事を企てておられる『御方』の知恵と愛が、あなた方を導かれますように、あなたの友人は心から真剣に願っています。  
1887年3月27日                            太田稲造

この1887年(明治20年)2月に、ジョセフ・コサンドは、津田仙が麻布本村町に建てた洋館(上、校舎の左端の建物、1912年に焼失し、その後建て直した。;左下は最初の教師と卒業生の全員)に移った。その洋館は、1883年(明治16年)12月で経済的な蹉跌のため廃校のやむなきに至ってしまっていた農学校を取り壊すことによって、の建築資材を活かして建てられたものだった。そして、同年10月3日に、住居としていた洋館の一部を仮校舎として、教師6名、女生徒3名をもって女性のための普連土女学校を開校したのである。
  フレンドを漢字で「普連土」と名付けたのは津田仙であった。学校設置願いには漢字の『普連土』が書かれているが、看板の文字が漢字になるのは翌1888年(明治21年)7月に当時の芝区三田功運町(現在地)に、ウイスター・モリスの多額な献金やその他のフィラデルフィア・クエーカーの資金援助によって土地を購入、校舎を建ててからのことになる。


津田梅子とメアリー・モリスの関係

津田仙の二女梅子(1864~1929 左、6才で留学当時の写真)は、5人の女子留学生第一号の一員として、1871年(明治4年)、岩倉具視を大使とする遣外使節団(開拓使)一行と共に米国に渡り、ジョージタウン(Georgetown)のチャールズ・ランメン(Charles Lanman)夫妻宅に滞在、初等、中等教育を受けた。彼女は11年後の1882年(明治15年)、山川捨松と共に帰国した。後年大山巌夫人となった山川捨松を受け入れたニューヘイブン(New Haven)のレオナルド・ベーコン牧師の家は、ウイリアム・コグスエル・ホイットニーの従兄弟でエール大学言語学教授のウイリアム・ドワイト・ホイットニー(William Dwight Whitney)家の真向かいにあった。

 
 津田梅子は、帰国後、伊藤博文(1841~1909)家の家庭教師となった縁で1886年(明治19年)に華族女学校の教授となった。だが、さらに留学して研鑽を積むため、1889年(明治22年)にはブリンモア大学(Bryn Mawr College)に再渡米することになった。梅子の二度目の留学となるブリンモア大学入学のためにウイスター・モリス夫人を紹介したのは、ウイリスとクララのホイットニー兄妹だった。
  クララ・ホイットニーが津田梅子の希望をフィラデルフィアの知人ウイスター・モリス夫人メアリーに伝え、どこかフィラデルフィアの近くに適当なところはないだろうか、と問い合わせた。そこから話はとんとん拍子に進み、梅子のブリンモア大学留学が決まるのである。
  さらに言えば、実はモリス夫人は、梅子がアーチャー・インスティテュート(Archer Institute)在学中から彼女を知っていた。津田梅子がモリス邸(現在のフレンズ・セントラル・スクール)を初めて訪れたのは、帰国直前の1882年(明治15年)2月だった。それは、新渡戸稲造や内村鑑三が留学する以前のことである。だから、内村や新渡戸は、すでにモリス夫人から津田梅子の名前を聞いている。そして、津田梅子はブリンモア大学に入学するため1889年(明治22年)8月に二度目の訪問をしている。これは、彼女が再渡米した時のことである。

  そこで、梅子からも留学の希望を記した手紙を受ける
と、メアリー・モリスは早速、ときのブリンモア大学長ジェームズ・E・ローズとの交渉の任に当たってくれた。ローズとブレスウェイト、ハーツホーンとの関係は前記のとおりである。ちなみに、戦後普連土学園の理事長・校長職を担い、エリザベス・ヴァイニング夫人の後任として皇太子殿下(現天皇陛下)の英語の家庭教師として1950年(昭和25年)から1958年(昭和33年)まで務めを果たしたエスター・B・ローズ(Esther B. Rhoads: 1896~1979 左の写真)の大伯父が、このブリンモア大学の学長ジェームズ・ローズであった。
  そしてまた、メアリー・モリスは、梅子から奨学金募集の相談を受けたとき、奨学基金として、8000ドルを集め、その利子で3~4年目ごとに一人の留学生が送れるようにするのがよいと提案し、自身American Scholarship for Japanese Womenの募金委員長となって梅子を助けたのである。

アナ・ハーツホーンと新渡戸稲造夫妻、津田梅子の関係
ヘンリー・ハーツホーンの妻メアリーは1887年(明治20年)に急逝した。その事情やブリンモア大学新設に関する自分の教育者としての情熱乃至は希望をめぐるいきさつもあり、その希望が実現に至らなかったヘンリー・ハーツホーンは、フレンズ・レヴューの編集長を辞めて、娘のアナを伴い初来日した。それが、1893年(明治26年)のことであったのはすでに述べた。
  
当時、コサンド夫妻によって設立された普連土女学校には、アナのクラスメートで、且つヘンリーの教え子でもあったメアリー・M・ヘインズ(Mary Haines)が教員として滞在していた。メアリー・ヘインズは新渡戸稲造が1885年(明治18年)6月10日付で手紙を出したマーガレット・W・ヘインズ(Margaret W. Haines)の娘である。これに先立ちメアリー・ヘインズはウイスターとメアリー・モリス夫妻と一緒に1890年(明治23年)4月、普連土女学校の教育活動や水戸での宣教活動の視察のために初来日していた。この時の通訳が北村透谷であった。彼女は、その2年後の1892年(明治25年)から2年間、普連土女学校で教えていたのである。
  メアリー・ヘインズと津田梅子はすでに親しかった。津田梅子は1892年(明治25年)にブリンモア大学で理学士の学位を得て帰国した。だが、津田梅子の二度目の留学から帰国後、1年を経て、アナ・ハーツホーンが来日し、普連土女学校で教えることになったのだった。

  当時の普連土女学校は、津田仙邸内から現在地(港区三田)に移っていた。その教師館にはアメリカから来ていたミネ・ピケット(Minni Pickett; 後のギルバート・ボールス夫人)、イディス・ディロン・ビーマン、メイ・マッカリー、メアリー・ヘインズやイギリスから来日したメアリー・アン・ガンドレーらが居て、外国人教員にとっては津田仙の農園や彼の家族との関係は、全く切り離せないものになっていた。だから津田仙父娘とハーツホーン父娘の親密さも増したのである。

一方、新渡戸稲造は、札幌農学校助教に任命され3年間のドイツ留学のため1887年(明治20年)5月15日ニューヨークを出発した。ボン大学、ベルリン大学(現在のフンボルト大学)、ハレ大学(Halle)に学び、1890年(明治23年)6月28日に学位を得てアメリカに戻った。このドイツ留学中にラヴレー博士に日本では宗教なしでどうして道徳教育を行うのか、と問いかけられたのがその後『武士道』を著す動機となった。
  1891年(明治24年)1月1日、ボルティモア時代にモリス邸で出会い、大西洋の波頭を超えて愛を育んだメアリー(万里)エルキントン(Mary Elkinton)と、周囲の反対を押し切ってフィラデルフィアのアーチ・ストリート(Arch Street)の会堂で挙式した新渡戸稲造は、同年2月10日、新妻万里(以下、メアリーを他のメアリーと区別するため日本名とする)を伴い帰国、3月4日に小樽から札幌に向かい、札幌農学校の教授になった。
  二人の間には1892年(明治25年)1月19日に、長男遠益が誕生したが、その喜びも束の間で、遠益は同月27日に夭逝した。また、産後の肥立ちが良くなかった妻万里は、一旦母国に帰国しフィラデルフィアで療養することになった。
  ようやくその妻万里の病状が回復し、日本に戻って来ることになったので、札幌で教えていた新渡戸稲造は、出迎えのために上京した。1894年(明治27年)3月のことである。万里はアナ・ハーツホーンより3歳年長だったが、旧知の親友アナが日本に滞在していたことで、心が休まった。新渡戸稲造は、3月30日、普連土女学校の卒業式で祝辞を述べて、妻と共に4月初旬に札幌に帰った。


片や、ヘンリー・ハーツホーンは、同年4月14日に、東京と横浜の医師会が主催する茶話会で講演を依頼された。彼はその会にアナを伴い出席した。けれども、そばに居合わせた女性は、津田仙が連れてきた梅子との二人だけだった。梅子の出席は、ヘンリーが仙に要請したのだという。


さて、そのころ、札幌に戻った新渡戸万里の健康状態は、かなり回復したとはいえ、万全ではなかった。そこで、ハーツホーン父娘は、その夏の数週間を札幌の新渡戸邸で過ごした後、同年8月31日、最初の日本訪問を終えて横浜から帰国の途についた。

  時をほぼ同じくする1894年(明治27年)7月25日、日本海軍が豊島(ほうとう)沖で清国艦隊を奇襲した。8月1日、日本が正式に宣戦布告した日清戦争は、1895年(明治28年)4月17日、下関条約が結ばれて終結した。この戦争により日本国内のフレンド派(芝普連土教会)の中で意見が二つに分かれた。戦争反対派と肯定派だった。
  これもハーツホーン再来日の一遠因ともなって行く。コサンドがハバフォード大学のYMCAからの資金援助で創立したフレンド派の男子校「聖愛学校」の生徒の多数が戦争肯定派だったから、結果的にコサンドを辞任に追い込んだのである。
  後日談になるが、コサンドは、日本への伝道と愛着やみがたく、アメリカ同胞教会の宣教師として再来日し、事あるごとに普連土女学校のために尽力してくれた。


ところで、1894年(明治27年)5月、新渡戸万里から1年間日本に来てくれないか、とのアナへの便りで要請があり、ハーツホーン父娘は、同年9月17日、再び日本の土を踏んだ。そして札幌の新渡戸邸に滞在することになった。アナは新渡戸夫妻のもとで、夫妻を助けていたが、その間、津田梅子とは手紙を通して互いの近況を知らせ合っていた。

1896年(明治29年)1月になると、ヘンリー・ハーツホーンは札幌から上京して、津田仙の築地50番地の持家を借り受け、コサンドの伝道活動に対して異議を唱え出した。前記のとおり、一つにはコサンドが開校した男子校の生徒が、日清戦争で戦争を肯定し、フレンド派が分裂したからである。これらの生徒の多くは、コサンドがアメリカ同胞教会の宣教師として再来日すると、その元へ集まって何人かは日本同胞教会の牧師となり、野田教会(現在は日本キリスト教団野田教会)などで活躍した。

  ヘンリー・ハーツホーンは、この再訪時にはスライドや写真を準備し、積極的に彼自身の考えで伝道を行った。同年7月にはジョージ・ブレスウェートも意見書を作って、ヘンリーに同調した。ヘンリー・ハーツホーンは、同年8月16日に『ウイリアム・ペンとフィラデルフィアの歴史を語りながらキリスト教を説く』、11月5日に『フレンド派の趣旨』についてと題する講演を行っている。
  だが、ヘンリー・ハーツホーンは、1897年(明治30年)2月11日に急逝し、すでに述べたように青山霊園外人墓地に葬られた。そのため、アナ・ハーツホーンは異国で家族から取り残され、失意のどん底にいた。が、葉山に彼女を誘い、彼女を慰め励まし、女子英学塾の構想を打ち明けて手伝ってほしい、と頼んだのが津田梅子であった。

  梅子に依頼されたアナ・ハーツホーンは、父の死後もしばらく札幌の新渡戸夫妻と生活を共にしていた。けれども、同年4月には上京した。

  しかし、このころ、新渡戸稲造は、日ごろの無理が高じたのか、教室で黒板に板書ができなくなるほどの病気になってしまった。札幌農学校のことは、常に彼の念頭を離れなかったが、沼津などに滞在、静養に努めていた。そこでアナ・ハーツホーンは、7月には鎌倉に滞在していた新渡戸稲造夫妻に合流した。けれども、同年11月下旬、出迎えに来たおじのチャールズ・ハーツホーン(Charles Hartshorne)に伴われて帰国したのである。


新渡戸稲造は、前記のとおりベルツ博士の忠告もあり、同年10月2日、札幌農学校の教授を辞して、まず伊香保温泉で転地療養することになった。しかし、病は完全には癒えなかった。そのために、万里夫人の勧めもあり、1898年(明治31年)7月、新たな転地療養の地をアメリカの太平洋岸、モントレーのホテル「デルモンテ」を療養先に選んだ。そこに、新渡戸夫妻はフィラデルフィアからアナ・ハーツホーンを呼んだ。 それと相前後するが、この間、伊香保温泉で療養しながら新渡戸稲造は「辱けなく高恩を追慕し亡母の記念に此書を捧ぐ」として大著「農業本論」を書き上げて、1898年(明治31年)8月に上梓した。彼の最初の専門書である。これと同時に「日本農業発達史」を論文として発表。翌1899年(明治32年)3月27日、佐藤昌介(1856~1939)と共に東京帝国大学評議会推薦によって農学博士号を日本で初めて授与されるのである。
  一方、カリフォルニア南部で気分の良い時には、家庭内で万里夫人からの日本の風習や日本人の考え方に関する質問につき口述したのを、夫妻の友人で彼の秘書でもあったアナ・ハーツホーンが書き取り、また、さまざまな注意を与えながらも、著したのが『武士道』であった。だから、その序文に新渡戸稲造は、執筆の動機について述べた後「この序文を結ぶに当って、私は、友人アナ・G・ハーツホーンに、数々の大切な示唆をして下さったことにつき、感謝を表明したく思う」と書いた。1899年(明治32年)12月のことであった。これが、1900年(明治33年)1月に、『Bushido, the soul of Japan』として、英文で出版されたのである。


新渡戸稲造がカリフォルニア南部に到着したのと同じ年の夏、1898年(明治31年)6月24日にデンバーで開催された世界女性クラブ会議に出席した津田梅子は、同年9月にフィラデルフィアのモリス邸を訪問した。そして新たな学校開設のために支援を要請したのである。これを請けて津田梅子の学校を支援する『フィラデルフィア委員会』が設立され、メアリー・モリスが会長に就任、アナ・ハーツホーンが書記に選出された。
  それから、帰国後の津田梅子は、ミッション系とも、女子高等師範や華族女学校とも異なる、一般の子女のための、英語を自由に学べる私塾を開きたいという希望を実現するため、最初の留学時代からの親友で顧問とした大山捨松(1860~1919 左の写真)の尽力も得て、1900年(明治33年)、『女子英学塾』の設立願を東京府知事に申請。同年9月、麹町一番町15番地に開校したのである。初年の塾生は通学生8名、寄宿生2名に過ぎなかったが、梅子にとっては、いずれの生徒も善き実を結ぶ貴重な種子であった。  

おわりに  
新渡戸稲造が札幌農学校から療養期間として認められていたのは、1900年(明治33年)1月までだった。そこで、当初は札幌に戻るつもりであったが、健康を回復した新渡戸稲造は、後藤新平(1957~1929 下右の写真)の懇請によって台湾総督府勤務を内諾した。しかし、台湾に赴任する前、ヨーロッパ視察を希望し、その希望が受け入れられたので、英文
『武士道』の発刊を見届けて、同年2月、ニューヨークを出立した。
  
彼は、ヨーロッパ視察中に、パリで開催された万国博覧会の審査官となって4ヶ月間パリに滞在したが、1901年(明治34年)1月26日、横浜港に到着した。翌2月2日には台湾総督府技師に任命された。国際人で教育者など多面的な活躍を行った新渡戸稲造の新たな旅立ちだった。
  
アナ・ハーツホーンは、1902年(明治35年)5月27日に来日した。三度目の日本での活躍は、津田梅子や大山捨松と共に、津田塾大学の新たな校舎を探すことから始まった。彼女は女子英学塾で梅子を助けて教える一方、同年9月から明治女学校でも一時期教鞭をとり、さらに英語教授法の研究のため同年12月29日、ヨーロッパに向かったのである。

津田梅子と新渡戸稲造の関係については、初めに述べた「その時」が、このように、フレンド派の日本伝道初期の時代背景や人物、すなわち、アメリカやイギリスのクエーカー、あるいは勝海舟や津田仙と言った幕臣を抜きにしては考えられない不思議な神の摂理のあったことを最後に記して擱筆したい。

  なお「普連土学園研究紀要」の拙論に対しては、亀田帛子前津田塾大学教授から新渡戸稲造の女子英学塾における講演には、次のものがあると以前に手紙で教えていただいたことがある。今般、良い機会を与えられたので付記して感謝したい。

  • 1901年(明治34年)2月8日 仏国婦人につきて
  • 1901年(明治34年)2月26日 「武士道」についての連続3回講演の第1回
  • 1905年(明治38年)4月1日 卒業式の講演
  • 1906年(明治39年)5月21日 「満州視察談」
  • 1909年(明治42年)12月1日 講演
  • 1910年(明治43年)5月18日 課外講演
  • 1912年(大正元年)10月16日 日米の関係
  • 1913年(大正 2年)10月31日 講演
  • 1915年(大正 4年)3月29日 講演
  • 1916年(大正 5年)3月29日 卒業式講演
  • 1924年(大正13年)12月16日 国民精神
  • 1927年(昭和 2年)3月24日 卒業式講演

そして、津田梅子が死去したときに、津田塾の講堂で営まれたキリスト教式の告別礼拝で、最初に長い弔辞を述べたのが、新渡戸稲造だった。

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

あまり知られていない日本の近代史の貴重な一面です。筆者が言及していますが、新渡戸稲造や津田梅子だけでなく、アメリカやイギリスのクエーカー、あるいは勝海舟、津田仙、といった幕臣を抜きにしては起こり得なかった不思議な神の摂理を感じないわけにはいきません。