その本論に先立って、、、高橋 経
先日公開した北村隆司さんの寄稿『「どうする日本」への反論』の中で、津田うめ(後に梅子)について触れていました。それを読んで、私は渡米の寸前、付け焼き刃で津田英語塾へ通ったことを思い出し、津田梅子の業績について調べてみました。
調べ終わってふと気が付いたのですが、梅子の履歴が同時代の新渡戸稲造と殆ど並行し、思想や留学先まで一致していたのです。ところが、いずれの経歴にも両者の触れ合いについて一言も書かれていないことに不審を感じ、新渡戸の業績に詳しい大津光男さんに問い合わせてみました。大津さんは東京三田の普連土(フレンド)学園の財務理事で資料室長を務めている方です。
数日後、ご返事をいただき、津田と新渡戸は女子教育の面でお互いに尊敬し合い、協力し合っていたことが明かにされました。続いて、それに関連する11ページに及ぶ原稿を送ってくださいました。これは、津田と新渡戸の業績だけでなく、日本における初期のキリスト教伝道の一面にも触れている貴重な資料だと判断し、近日内に全文を公開いたします。 それに先立って、日本の女子教育を推進した津田梅子、新渡戸稲造、について馴染みのない方々のために両先駆者たちの横顔をご紹介いたします。
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)
1862年(文久2年)9月1日 岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として生まれる。「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク(William S. Clark)博士が教えていた札幌農学校(現在の北海道大学)へ博士が帰国した直後、二期生として入学した。 入学早々一期生たちに「伝道」された。入学前からキリスト教に興味をもっていた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(うちむら かんぞう)、宮部金吾(みやべ きんご、植物学者)、廣井勇(ひろい いさむ、土木技術者)らとともに、函館のメゾジスト系宣教師M.C.ハリス(Harris)から洗礼を受けた。
この当時から新渡戸はキリスト教に深い感銘を受けていた。 東京帝国大学(現東京大学)進学したが心暖まらず、私費でアメリカに渡り、ジョンズ・ホプキンス(Johns Hopkins)大学に留学。次第に伝統的なキリスト教に懐疑的になり、クエーカー派の集会に通い会員となった。クェーカーたちとの親交を通してメリー・エルキントン(Mary Elkinton)と出会い結婚。
帰国後、札幌農学校助教授に任命され、官費でドイツへ留学、ハレ(Halle)大学で博士号を得て帰国し、札幌農学校の教授となる。
札幌時代に新渡戸夫妻は共に体調を崩し、カリフォルニア州へ転地療養。この間に英文で『武士道』を書き上げた。1900年(明治33年)に同書の初版が刊行され、各国語に翻訳されて世界的なベストセラーとなった。
1928年(昭和3年)札幌農学校当時の弟子だった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(現東京文化短期大学)の初代校長に就任。
1929年(昭和4年) 学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。 敬虔なクエーカー(キリスト)教徒として知られ、一高の教職にあった時、学生達に内村鑑三の聖書研究会で学ぶことを推奨した。その会から、矢内原忠雄、高木八尺、南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二などの教育者、政治家、聖書学者が輩出している。
1930年代の初頭(昭和7年頃)、日本が国際連盟を脱退し軍国主義思想が高まった時期に「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」と発言し、それが新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼の反発を買い多くの友人や弟子たちを失った。一方、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えたが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々が続いた。
1933年(昭和8年)秋、カナダのバンフ(Banff, Alberta)で開かれた太平洋調査会々議に日本代表団々長として出席するため訪問。会議終了後の10月15日、当時国際港があった西岸ヴィクトリアで肺炎で倒れ病院で永眠。
津田梅子(つだ うめこ)
1864年(元治元年)12月31日、津田仙(せん、旧幕臣)と津田初子(はつこ)夫妻の次女として、江戸牛込南御徒町に生まれた。父、仙は幕府崩壊とともに士族の肩書きを失ったが、1869年(明治2年)に築地のホテル館へ勤め向島へ移転。幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の西洋野菜栽培を手伝った。
1871年(明治4年)仙は、明治政府の事業、北海道開拓使の嘱託となり麻布へ移る。開拓使次官の黒田清隆(くろだ きよたか)が女子教育に関心を持ち女子留学生を企画していたので、仙は梅子を応募させ、1871年(明治4年)岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち梅子は最年少の6才だった。
アメリカではジョージタウン(Georgetown)で日本弁務官書記のチャールズ・ランマン(Charles Lanman )家に寄宿、いささかの移動も含み、同家で10数年を過ごした。その間、英語、ピアノなどを学び、市内のコレジェト・インスティチュート(Collegiate Institute)で学ぶ。この頃には日本宛の手紙も英文で書くようになり、キリスト教への信仰も芽生え、1873年7月にはフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けた。1878年(明治11年)にはコレジェト校を卒業し、私立女学校、アーチャー・インスティチュート(the Archer Institute)へ進学、ラテン語、フランス語、英文学、自然科学、心理学、芸術などを学んだ。
1882年(明治15年)7月に卒業し、11月に帰国したが、長い留学生活で日本語が退化し、日本的風習にも馴染めなかった。1883年(明治16年)外務卿井上馨(いのうえ かおる)の夜会で伊藤博文と再会し、華族子女の私塾を開設していた下田歌子の下で英語教師となる。1885年には学習院女学部から分離設立された華族女学校で英語を教え、1886年(明治19年)には嘱託となる。だが梅子は華族や上流階級の気風に馴染めず、1888年再度の留学を決意。
1889年(明治22年)7月、梅子は再び渡米。フィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジ (Bryn Mawr College) で生物学を専攻。1892年卒業後、教授法を勉強し、日本女性留学のための奨学金設立を発起し、数多くの講演や募金活動を行い8千ドルも醵金した。
1892年8月に帰国、再び女子華族院に勤め教師を続けたが、自宅で女学生を教えるなど積極的な援助を行い、1900年(明治33年)辞職、父の仙や他の協力者を得て、7月に津田女子英学塾を東京麹町に開校した。
華族と平民との間に差別がない女子教育を目指して、一般女子に対して進歩的な自由で高いレベルの教育を始めて評判となる。独自の教育方針を貫くため、資金援助は最低限度に抑えたので経営は苦しかった。 1903年(明治36年)に専門学校令が公布され、塾は社団法人となった。
1915年(大正4年)、梅子の女子教育への貢献に対して、勲六等宝冠賞が授与された。梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整った1919年1月に塾長を辞任。鎌倉の別荘で斗病後、1929年(昭和4年)8月16日64歳で生涯独身のまま死去。
墓所は東京都小平市、津田塾大学構内。
1 件のコメント:
新渡戸と津田の関わり合いは、男女としてでなく、教育者同士としての親愛で尊敬し合っていたのですね。
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