2011年5月5日木曜日

ビン・ラデン:聖戦の軌跡

はじめに:去る5月1日、2001年にアメリカを震駭させたナイン・イレブン(同時多発テロ)の首謀者、オサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden:上の写真)が、アメリカ海軍の特殊軍団によって殺害された。いわば10年近く『世界で最も危険なお尋ね者』として探し求めていた『仇敵』を討ち取ったのだから、当然のように大勢のアメリカ人が喝采し、歓喜に浸っていた。

中でもあの時のテロで近親を失った家族たちが、マンハッタンの南端にかつて聳えていて破壊されたワールド・トレード・センター(The World Trade Center)ツイン・タワー跡のグラウンド・ゼロに集まり、涙して感慨にふけっていた。


感極まった遺族の一部は『仇敵』ビン・ラデンの屍体写真の公開を迫ったが、オバマ大統領は「写真は生々しい画像なので、残存するアル・カエダ(Al Qaeda)を刺激し挑発する恐れがあるし、また我々は、敵の首を優勝杯のように掲げて得意がる気持ちは毛頭ない」と公開を拒否した。これは賢明にして思慮深い判断である。

多言は避けるが、これで前大統領ジョージ・ブッシュが展開した『テロ退治作戦』が終わりを告げたわけではない。『テロの脅威』は依然として存在しているのである。


上に掲げたニューヨーク・タイムズ紙の『ビン・ラデン殺害』に対する一般の反応調査によると、必ずしも全アメリカ人が『仇討ち成功』の喜びに酔い痴れているわけではない。楽観的(右寄り)、悲観的(左寄り)、有意義(上寄り)、無意義(下寄り)、総計13,864点に上る様々な反応の声が紹介されている。もしご興味があったら、このチャートをクリックして本紙につなぎ、小さな四角の一つ一つの背後にある声を読んでみるのも一興であろう。

『聖戦』という言葉は第二次世界大戦中、日本帝国の陸軍が、戦争の正当化すると同時に国民の士気を高揚するために生まれた表現だ。英語に直訳すればHoly War、ビン・ラデンはイスラムの表現『ジハド(Jihad)』と唱えた。いずれにせよ、戦争は『悪の根源』であって、如何に神仏を担ぎ出しても正当化することはできない。それは、戦争を体験した年代の日本人なら誰でも思い知らされた痛恨事であるはずだ。

これはあくまでも私見だが、ビン・ラデンの足跡を辿ってみると、人の『運命』というものが偶然の出逢いから強烈な影響が与えられ、本人の意志と関わりを持ちつつ、或いは全く関わりなく上昇したり、下落したり、思いがけない方向に進んでしまうようだ。ビン・ラデンが『テロ』を志したのは自ら選んだ道だったのは疑いのない事実だが、彼の特異な容貌、人々を魅了するカリスマ的な説得力を知るにつけ、彼は、どんな道を選んだとしても、指導的な立場につく『運命』にあった人物のように思える。

言い換えると、オサマ・ビン・ラデンは、キリストの如く、釈迦の如く、モハメッドの如く、人々の魂を救い、尊敬されるような大人物になる可能性を秘めた他の運命への道があったような気がしてならない。----- 編集:高橋 経

オサマ・ビン・ラデンの足跡
5月2日付け、NYT紙より

1957年:オサマ・ビン・ラデン(Osama bin Laden:上の写真、1998年)は、サウジ・アラビア、ルヤダ(Ruyadh)で誕生。父親ムハマッド・ビン・アワド(Muhammad bin Awad bin Laden)が作った50人の子供たちの内、17番目の息子。

1967年:オサマが11才か12才だった時、富裕な投資家にしてビジネスマンである父親ムハマッドが、サン・アントニオ近くで飛行機事故で死亡。それで巨額の遺産の一部を相続。以来、王室に接近し、王子たちと親交を持ち、15才までに馬数頭を所有。

1975年:サウジ・アラビア、ジッダ(Jidda)にあるキング・アブデル・アジズ大学(King Abdel Aziz University)に入学、将来家族の業務に参加するつもりで土木技術学を専攻。在学中、二人のイズラム学者、ムハマッド・クッタブ(Muhammad Quttub)アブダラァ・アッザム(Abdullah Azzam 右の写真)の影響を強く受け、アル・カエダ(Al Qaeda)を支持する思想に傾いていった。その基本思想は「イスラム教徒は聖戦を遂行する義務がある」ということで「聖戦と銃だけが優先し、講和も談合も協調も必要ない」と結論付けた。

1979年:大学を卒業。その年、ソ連がアフガニスタンを侵略。それに憤慨したビン・ラデンは醵金し、アフガンの戦士たちを経済的に支援した。 (左の写真はアフガニスタン、ジャララバドJalalabadにおけるビン・ラデン 、1988年)

1984年:ビン・ラデンは学者アッザムに協力し、アフガニスタンへ赴く聖戦斗士(holy warriors又はjihadists)が泊れるよう、ペシャワァ(Peshawar)に宿舎を建てた。サウジ・アラビアで集めた献金で準備オフィス(the Office of Services)を建設し、世界中から若い『聖戦斗士』達を集めた。

1986年:ビン・ラデンは、彼直属の訓練キャンプを設置し、別個のテントに50人の過激派ペルシャ湾アラビア人を収容した。彼はそのテントをアル・マッサダ(Al Masadah)と名付けた。ビン・ラデンは彼らを補助するために月々2万5千ドル支出していた。(右の写真は1988年頃)

1989年:アフガニスタンを侵略したソ連が後退したのを転機とし、ビン・ラデンは反抗戦士たちを経済的に援助し、武器や住居を提供し、ソ連の撤退をイスラム側の勝利であるとし、イスラムの政治的な勢力を増大させ『不徳な』政府を『聖戦』の力で追放する作戦を打ち立てた。

1990年8月:イラクがクエィトを侵略。ビン・ラデンは積極的にサウジ諸国にアフガニスタンで戦った兵力や武器を転用供給し、王国を守るよう働きかけた。彼としては敵だと思っていたアメリカ合衆国が、サウジ諸国を援助していることが意外で、しかし不遜と感じていた。

1991年:ビン・ラデンはテロリスト達の隠れ蓑であったスーダンに逃避し、そこで軍資金を作るため、利益を上げるビジネスを始めた。また1992年には、パキスタンから500人のアフガン戦士を呼び寄せ、準備兵力とした。

1992年12月29日:イエメン、アデン(Aden)のホテルに爆弾が炸裂した。そのホテルには、ソマリアへ進攻するアメリカ軍が逗留しているはずだったが、既に出発した後で、その代わりに
オーストリアの旅客が2人死亡した。この事件はビン・ラデンの仕業だと信じられている。

1993年2月26日:ニューヨーク、ワールド・トレード・センター北館へ、トラックで運んだ爆薬を炸裂させ、6名を殺し多数に重軽傷を負わせた。
(左の写真)この事件をビン・ラデンが計画したという証拠はないが、経済的な援助をしたと信じられている。

1994年4月10日:サウジ・アラビア政府は「ビン・ラデンの無責任な行動が当政府の外交上、友好国との間に摩擦を起こす危険があるにも拘らず、彼は当局の指令を無視した」という理由で市民権を剥奪。 (右:先頭がサウジ・アラビア国王ファド Fahdと、背後にビン・ラデンの兄弟二人YahyaとBakrが見える )

1996年~2001年:ビン・ラデンはアフガニスタンを後に支配するようになったタリバン(the Taliban)を経済的に援助していた。続いて、国際的な人種混合のテロリスト配属集団アル・カエダ(Al Qaeda)の一派として、彼個人の組織作りに時間をかけていた。 (左は、タリバン支持者たちのラリー)

1966年6月5日:スーダン政府は、テロリストが国内に安住していることを外交上容認していたが、同国の首都カートウム(Khartoum)に1991年以来居住していたビン・ラデンを国外に追放すべく、国連安全保証審議会(the United National Security Council)に要請した。

1996年6月25日:サウジ、ダーラン市(Dhahran)で、爆薬を満載したトラックを、アメリカ空軍の将兵が宿泊していたアパート群で炸裂させ、最低23人を死亡させ、300人以上に重軽傷を負わせた。(右の写真)表面的にビン・ラデンは関与していなかったが、公にその成功を祝福していた。

1996年7月11日:アフガニスタンでイギリスの日刊紙ザ・インディペンデント(Independent)のインタビューで、空爆でリアダァとダァラン(Riyadh and Dhahran)の26人が死亡した事件に関し、ビン・ラデンは「彼ら(犠牲者)の大敵アメリカを討つ、、、」と発言した。

1996年8月:ビン・ラデンは、アフガニスタンのタリバン本拠地トラ・ボラ(Tora Bora)から「二つの聖なる寺院を占領しているアメリカ軍に対して宣戦」を布告した。それに当って、強大なアメリカの武力と、イスラムの劣った武力の差を補うために新しい作戦を編み出した。「すなわちゲリラ作戦を推進し、軍備ではなく、この国の若者たちの斗志を増強することにある」と書き記した。

1988年から2001年まで:CIA(ジョージ・テネットGeorge J. Tenet長官)はビン・ラデンを捜索。目標はアフガニスタンの捜索隊の協力を得て、彼を捕縛あるいは誘導ミサイルで殺害する
ことにあった。

1998年8月7日:ケニアとタンザニアに設置されていたアメリカ大使館がそれぞれ、数分の差で大爆破され、224人殺された。この爆弾攻撃がビン・ラデンの作戦だったという明白な証拠はないが、西欧の関係者たちは彼の関与を確信している。 (左の写真)

1998年8月16日:連邦政府の検察官たちは、ナイロビィ、ケニア、タンザニアのアメリカ大使館の爆破にビン・ラデンの関与があったという情報を入手したと発表。 (右の写真:200人以上が犠牲になった)

1998年11月4日:マンハッタンの連邦大陪審はビン・ラデンに対し、アフリカの2カ所のアメリカ大使館爆破事件と海外のアメリカ国民に対して犯したテロ行為など、238件の罪状で起訴する意図を固めた。当時のビル・クリントン大統領は、ビン・ラデンを最悪の民衆の敵(Public Enemy No. 1)』と指摘した。(左:アフガニスタンで追従者たちと移動するビン・ラデン)

1999年1月:アメリカ政府はビン・ラデンおよび国際テロリスト集団アル・カエダに対し、アメリカ国民殺害の犯罪行為に対する起訴を更新し公布した。

2000年10月12日:アル・カエダが、イエメンの港で給油のため停泊していたアメリカ海軍の駆逐艦コール(the US destroyer Cole)に攻撃を加え船腹を破壊し、17名の水兵を殺し、39名に重軽傷を負わせた。(右の写真)

2001年9月11日:史上最悪の同時多発テロがアメリカを攻撃した。乗っ取られた4機の旅客機の内2機が、ニューヨークのワールド・トレード・センターの両ビルを壊滅し、3機目はヴァージニ
ア州の国防省(the Pentagon)ビルを大破し、ホワイトハウスを目標にしていたと思われる4機目だけは、乗客の必死の抵抗と犠牲により、ペンシルヴェニアの田園に墜落した。その筋では、ビン・ラデンがこのテロの仕掛人であると断定した。 (左の写真)

2001年9月18日:時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュ(George W. Bush)は国防省で、9月11日のテロの首謀者ビン・ラデンを有力容疑者として追求し裁判にかけると宣言。さらに、他のテロリストも徹底的に追求し壊滅すると付け加えた。 (右の写真)

2001年10月7日:ビン・ラデンはイスラムのテレビ、アル・ジャジィラ(Al Jazeera)局を通じ「今やアメリカは万能の神から鉄槌を下され、重要な機能を破壊された。その神に心から感謝を捧げる。今回アメリカが味わっている苦渋は、我々が味わっている苦渋のほんの一部にしか過ぎない」と発言。 (左の写真:スーパーは、録音の悪い部分を補助している)

2001年11月3日:アラブやイスラムの多数意見を代表し、ビン・ラデンはビデオを通じ「アメリカ軍のアフガニスタン作戦は、全イスラム民族を敵にしていることに他ならない。アフガニスタン人民はこうした殺戮を受けるいわれはない」と発言。

2001年12月14日:アメリカ軍の援助を受けているアフガンの軍隊は、トラ・ボラ(Tora Bora)地帯の洞穴や峡谷に潜むビン・ラデンの過激派勢力に包囲されていると信じていた。国防省はその地帯がビン・ラデンの根拠地であると想定し、攻撃を加えることに決定。(右の写真:空しい破壊と捜索)

2001年12月31日:ビン・ラデンを目標とし、アメリカ軍の援護の下に捜索隊や戦士らがトラ・ボラ地帯の洞窟をくまなく捜索し攻撃を加えたが得る事無く、冬が迫ってきたので作戦を中断。ビン・ラデンは既に逃亡した後だったようだ。

2006年9月11日:5年間の沈黙の後、ビン・ラデンの最高顧問、アイマン・アルザワァ(Ayman al-Zawahr)は、『ナイン・イレブン』テロの5周年記念に当り、イスラム圏内の共鳴者に、武器を取ってアメリカを攻撃しようと呼びかけ、アル・カエダによる中東での反撃を予告した。(左の写真の右がアルザワァ)

2010年1月25日:ビン・ラデンはテレビを通じ、
前年のクリスマス12月25日に失敗した旅客機爆破の事件には触れず「パレスチナの事情が安定しない限り、アメリカ人は心安らかに眠ることはできまい。アメリカがイスラエルを援助する限り、神の思し召しにより、我々はアメリカを攻撃し続けるであろう」と予告した。

2010年3月26日:ビン・ラデンはテレビを通じ『ナイン・イレブン』テロの首謀者カーリド・シャイカ・モハメッド(Khalid Shaikh Mohammed)を処刑したら、その代わりにアル・カエダが拘留しているアメリカ人を殺してやる、と脅迫してきた。(右の写真)

2011年5月1日:『ナイン・イレブン』以来、10年近くの才月を経たこの日、ビン・ラデン追跡の努力が報われ、アメリカ海軍の特殊攻撃隊がパキスタン、アボッタバド(Abbottabad)の高級住宅地に潜んでいたオサマ・ビン・ラデンを急襲し射殺した。特設テレビでその状況の一部始終を閣僚と共に見守っていたオバマ大統領は、ビン・ラデンの死を確認した後、記者会見で『重要な任務を達成』したと発表し、更に「彼の死で我々の努力が終了したわけではない」と強調した。(左の写真)

2011年5月1日日曜日

アメリカ南部から北上した竜巻

はじめに:世界的に『史上最悪の』天災、人災が頻発している。東日本大震災のほとぼりが冷めやらぬ4月半ば、アメリカ南部から東北部にかけて大雨による河川の氾濫から洪水によって何千何万という家屋が水浸しとなり、乾く間もなく大小400に及ぶ竜巻に席巻され、これまた何千何万という家屋が吹き飛ばされ破壊され瓦礫の山と化した。

もし誰かに「選べるとしたら、地震、津波、洪水、山火事、台風、竜巻の内どれがよいか?」と聞かれても返答に窮する。


この場合は津波を伴った東日本大震災の惨状と、アメリカ南部を破壊した竜巻の猛威と、どちらが被害が大きかったか、という論議する気持ちは毛頭ない。それは無意味な比較であろう。いずれの場合でも、想像を絶する天然の猛威から逃避する術もなく、多数の死傷者や、家屋財産を失った犠牲者を出したことには変わりないのである。


従って、下掲のアメリカの地図と日本の地図を並べたのは被害状況を比べるためではなく、読者に被害地域の規模の概念を視覚的に納得して頂くためである。別のご参考のため、両国の緯度は正しい位置に設定した。

我々人類にとって将来の課題は、こうした天災を予測するのは可能だとしても、抑えることが不可能である限り、その猛威から如何に被害を最小限度に留めるかにかかっている。編集;高橋経
ニューヨーク・タイムズ紙
アラン・マクリーン(Alan McLean)、アーチー・ツエイ(Archie Tsei)による報告
4月29日付けの記事から抜粋

去る4月14日から、昨28日までの2週間に大小の竜巻がアメリカ南部諸州から東に向かって北上し、家屋から人畜に至まで容赦なく上空に吹き飛ばし、破壊の限りを尽くして通り抜けた。その破壊力は2トンの大型車を吸い上げ、地上に叩き付ける強さ、と言ったら想像がつくであろう。
(下掲のアメリカ東半分の地図は、竜巻が破壊した地点を示す。東日本震災の地図と並べたが緯度だけは対応している。)

記録された風速は時速320キロ以上、それはジェット機が飛行する早さだと思ったら間違いない。従って警告予報が出されたら、直ちに地下室などに避難しないと逃げ遅れて空に吸い上げられる運命になる。こうして命を奪われた人々が400名もいたが、この数字は救出作業が進むにつれて更に増えるであろうと予想される。

高圧線の鉄塔もテネシー州だけでも200基以上が破壊され、70万人の利用者が停電の状態にある。最も被害が大きかったアラバマ州でも26万所帯が停電の憂き目に遭っている。


家を吹き飛ばされた人々は、文字通り着の身着のまま、家財道具はおろか、所持品の全てが空の彼方に飛ばされていった。よほど運が良くてそれが見付かったとしても、数10キロも離れた地点に落下していることであろう。


以下は竜巻一過、現状のほんの一部:

被害が最悪だったアラバマ州、タスカルーサ町(Tuscaloosa)を視察するオバマ大統領「こんな酷い天災は見た事が無い。政府としては、犠牲者たちを生き返させることはできないが、物質的な損害はできるだけ補助しよう」と約した。 

家屋を破壊されたタスカルーサのシーダー・クレスト(the Cedar Crest)フォレスト・レーク(Forest Lake)付近の惨状。-----空中から撮影

4月21日の竜巻で、6州に亘って襲来した竜巻で285名が死亡し、その内アラバマ州だけでも195名が犠牲になった。----- 写真はタスカルーサにて

この竜巻で、何千人もが負傷し、無数の人々が住居を失った。それでも残留品の中から使えそうなものを何とか回収している。

被害状況を調べるプラット市(Pratt City)の住民。

息子の家の瓦礫から所有物を回収する両親。
-----ジョージア州、バートウ郡(Bartow County)にて

姪の家に避難した婦人が、竜巻一過で引き揚げる。といっても、帰る家が残っているかどうか心もとない。-----ジョージア州、バートウ郡にて

被害に遭った母親の家を見舞い、状況を調べて抱き合う息子と母親。-----ジョージア州、ケイブ・スプリング(Cave Spring)にて

テネシー州、グリーンヴィル(Greeneville)のボランティア達がキャンプ・クリーク地域(the Camp Creek Community)の瓦礫を捜索。

唯一つ残された土台の床に立ち、呆然として隣人と恐怖を語り合う住人。-----アラバマ州、バーミングハム市の西郊外。プレザント・グローブ(Pleasant Grove)にて

『竜巻が接近』
画面をクリックすると動画のスクリーンに移動します。 多分ケイタイで撮ったビデオのため画面が不鮮明ですが、その状況の理解には役立つでしょう。-----2分28秒-----

2011年4月21日木曜日

われ痛む 故に われ在り

志知 均(しち ひとし)
2011年4月

ギリシャの哲学者、アリストテレス(Aristotle:374B.C.-322B.C.;左の彫刻)は『痛み』は一種の感情だと言った。注射が嫌いな人は注射針が肌に触っただけで痛いと感ずるのはその例かもしれないが、針が刺さればやはり痛いのは事実である。

痛みを詩にしたアメリカの稀有な詩人、エミリー・デイッキンソン(Emily Dickinson:1830-1886:右の写真)は痛みに襲われた時の思いを次のようにうたっている。

痛みの時間は鉛のように重く、過ぎた後の記憶は、凍える人が、雪の-----冷たさ、無感覚、そしてそれが過ぎ去るのを待った記憶と同じようなもの(This is the hour of lead / Remembered if outlived / As freezing persons recollect / The snow- / First chill, then stupor, then / The letting go.)。(After Great Pain A Formal Feeling Comesより)

痛みは大別すると二種類ある。ひとつは傷が治れば消える痛み。もうひとつは傷が治った後でも続く慢性痛で、よい治療法がなく苦しむ人が多い。アメリカ人の4分の1(特に女性)が何らかの慢性痛をもっているといわれる!

17世紀フランスの哲学者、数学者、物理学者、デカルト(Rene Descartes:1596-1650:左図)「傷の痛みは、傷口からロープを伝って頭に達し、そこでベルを鳴らすことによって生ずる」と考えた。たしかに痛みは体の損傷を告げる警鐘であることは間違いない。デカルトの考えは基本的には現在でも正しいが、痛みのメカニズムは、もちろんそれほど単純ではない。

判り難くて『頭痛』が起きるかもしれないが以下に説明しよう。


現在の通説によれば、痛みの成立過程は三つに別けられる。われわれのからだ全体(皮膚も内臓も)には、痛みを生ずる刺激(noxious stimuli)を感知する神経細胞(nocireceptorsと呼ばれる)が存在している。(
nocireceptorsは寒冷による刺激、酸などの化学物資による刺激、圧力などの物理的刺激、それに炎症因子による刺激などを感知する多種類の神経細胞の総称である。)

nocireceptors細胞の一端は伸びていて皮膚などの組織細胞に接し、他端は脊髄の神経細胞にシナプスしている。 例えば足の指を怪我すると、そのメッセージはnocireceptorsに感知され、脊髄の神経細胞へ伝えられる。これが第一過程

第二過程では怪我のメッセージは脊髄から脳へ送られる。

メッセージは第三過程視床(thalamus)を経て大脳皮質(cerebral cortex)に到り、痛覚を形成する。

その後にメッセージ逆行の過程(第四過程)があって、大脳前頭葉皮質(frontal cortex)その他の部分から脊髄
神経細胞へ抑制メッセージが送られ、nocireceptorsからの痛み刺激のメッセージが脳へ来ないようにする。そのおかげで傷口の痛みはやわらいでいく。

この痛みのメカニズムは外傷でも内傷でもおなじであり、第一、第二、第三過程のどれかを阻止すれば痛みは止まる。例えば、虫歯を抜く時注射するノボケイン(novocain)やリドケイン(lidocaine)は第一過程の初めにある『傷口』の神経細胞を麻痺させる。

第二過程で痛みを止める例は、産婦の脊椎にモルヒネ(morphine)を注射して(spinal blockと呼ぶ)分娩の痛みを和らげる場合で、意識ははっきりしているから産婦は新生児の産声を聞くことができる。

Bold
全身麻酔(general anesthetics)は第三過程における大脳皮質の情報処理を阻止して痛みを止める。

痛みのメカニズムの主役は上述のように
nocireceptors神経細胞、脊髄神経細胞、それに大脳神経細胞だが、最近、神経細胞を取り巻いてそのはたらきを助けるグリア(glia)細胞が注目されてきている。傷で組織の神経細胞が痛められると、グリア細胞は神経細胞増殖因子や、病菌感染を防ぐ免疫細胞を召集する因子などを分泌する。

通常はこの活性化状態は第四過程によって次第に沈静化する。
しかし、どこかで調節が狂って活性化状態がいつまでも続いたり、痛みの刺激がないのに脊髄細胞がメッセージを脳に送ったりすると、脊椎痛(back pain)、偏頭痛(migraine headache)、繊維筋肉痛(fibromyalgia)などの慢性痛がはじまる。

詳細は省くが、グリア細胞が痛みのメカニズムの全過程で『活性化状態』の調節や慢性痛の発現に重要な働きをすることが判ってきた。したがって、神経細胞だけでなくグリア細胞をターゲットにした慢性痛の新薬が開発されるのが待たれる。


非ステロイド抗炎症剤(タイラノール;Tylenol, アスピリン;Aspirin, アイブプロフェン;Ibuprofenなど)を始め、色々な薬を試しても慢性痛が治らない人は、マッサージや針灸などの治療にすがることになる。これらの治療は、メカニズムはよく判らないが鎮痛効果があることは確かである。痛いところがあると、われわれはそこへ手をあてる。手で触れるだけで血中コルチゾールが下がり、ストレス痛が和らぐという。マッサージにはそうした効果も含まれているであろう。針や灸には大脳からのエンドルフィン(細胞が作るアヘン様ペプチド)の分泌を高める効果がある。

物理療法としては、磁波療法(transmagnetic stimulation)がある。これは磁波を頭に当てて、痛みに関係する脳神経回路を変換させる(remapping)治療法である。

また脊髄刺激療法(spinal-cord stimulation:左図)は小型発信器を背中の皮下に取り付け、痛みに関与する脊髄神経細胞へ電気刺激を送って痛みのメッセージを抑える治療法である。痛みの治療法としてはこれらは最後の手段に近い。
デカルトが痛みのメカニズムに興味をもったのは、何かの慢性痛を持っていたからかもしれない。そして、“cogito ergo sum"と書きながら「われ痛む 故に われ在り」と言ったかも、、、。

2011年4月13日水曜日

東北大震災;データ報告

大震災の被害状況を、総合的な見地から知る事ができるデータ報告が、本日ニューヨーク・タイムズから発表されました。タイムズの記事へは、下に掲げたいずれかの図表をクリックするとつながります。

内容は次の5種別カテゴリー:


★ 余震(Aftershocks)について:その地点と強度

★ 死者数と不明数(Dead or Missing)について:地区別の被害数

★ 建造物の倒壊および破損(Buildings Destroyed or Damaged)について:地区別の被害数

★ 現場の写真(Photos)について:地区別に見られるアルバム

★ 放射能の汚染状況(Radiation Levels)について:各地点の汚染度

グーグル・マップに馴染みのない方々へ:


1. 先ず、左上のカテゴリーを選ぶ。(左図では放射能汚染が選ばれている)
2. 必要に応じて拡大(+)または縮小(-)。

3. カーソルをクリックしたまま、上下左右、見易い位置に画面を移動。
4. 後は、知りたい地点にカーソルを当てるだけで、データが表示される。

2011年4月6日水曜日

広がる思いやりの輪

東北大震災という非常時に当たって、連日の暗いニュースに混じって、数々の善意ある行動も伝えられている。ほんの些細な善意から、膨大な義援金の拠出に至るまで、全て心を温められ、失望から救われる思いがする。以下一部だが、心の糧として分かち合いたい。

岩手県の大船渡と釜石に入ったアメリカの救援隊消防士はその惨状に驚いたが、印象深かったのは倒壊したある店の女性主人が「何 もありませんが」とセンベイを差し出したのには感激した。(毎日)

同じく大船渡市で捜索活動をした中国の援助隊員は、通りがかりの住民に「遠くからわざわざありがとう」と声 をかけられ、アメや菓子を手渡された。(毎日)

別の隊員は現地コンビニで「援助隊なら」と代金の受け取りを拒まれ、逆にカップ麺やおにぎりの提供を受けた。(毎日)

マレーシアのある孤児院では、孤児が修道女らに働きかけて被災地への募金活動を始め、自分らと卒業生の分も含む義援金と激励の言葉を日本大使館に寄せた。(毎日)

パキスタンの地中海性貧血を患う子供たち40人は、福祉団体代表と共に日本の領事館へ被災地の子供たちにとサッカーボール10個を寄贈した。(毎日)

アジアの途上国からは過去の日本の援助や災害支援への感謝と共に寄せら れる義援金やお見舞いのメッセージが相次いでいる。(毎日)

ブラジルの貧しい地区の生徒たちは、空き缶に小銭を集めた。(毎日)

スウェー デンの8歳の子は、お小遣いで被災者に水を送りたいといっている。(毎日)

ポーランドのタクシー運転手は、日本人からは代金を取れないと言って走り去った。(毎日)

あるロシアの紳士は、巨額の金と「がんばって」との一言だけを残して立ち去った。(毎日)

ソフトバンクの孫正義社長は、大震災に1,00億円の義援金と、経営から退くまで、毎年の役員報酬も全額寄付すると申し入れた。(朝日)

ユニクロを展開する柳井正、楽天創業者の三木谷浩史の両氏は、それ ぞれ個人で10億円を拠出。(朝日)

ゴルファーの石川遼は「自分にも気合が入る」と、今季の獲得賞金を全部差し出す予定。(朝日)

ジャニーズ事務所の被災者支援イベントには39万人 が参加した。募金の長蛇に加わった女性の一人は「チリも積もればの、チリになれば」とその思いを語る。(朝日)

日本赤十字社などへの義援金は阪神大震災をしのぎ、1000億円を超えたとみられる。(朝日)

子どもたちは、僅かな小遣いから10円玉でも、とのこと。(朝日)

その他数限りなく、、、。