2012年7月3日火曜日

しょうゆ注ぎビンをデザインした人

レスリー・カムヒ(Leslie Camhi)
6月15日付け、NYT紙より

日本がアメリカを主力とした連合軍に降伏したのが昭和20年8月15日。それから間もなく、海軍兵学校で士官候補生の訓練を受けていた栄久庵憲司(えくあん・けんじ)は、軍籍を解除され、汽車で故郷の広島へ着いた。そこで彼は、完膚無きまでに破壊された広島の惨状を目の当たりにした。

呆然としながら栄久庵は、「何も残っていない廃墟の前で、私は無性に人類の文化を懐かしく思い、何か手に触れられ、形が見える『もの』が欲しくなりました。そこで、私は『もの』造りになろうと心に決めたのです」と回想する。彼はその願望通り、7年後の1952年(昭和27年)にクラスメイト達と共同でGKインダストリアル・デザイン研究所を創立した。爾来、今日までの60年間に、ヤマハのオートバイ、秋田新幹線『こまち』の車体など、そして、表題のキッコーマンしょうゆ注ぎのデザインを世に送り出した。

このしょうゆ注ぎが発売されたのが1961年(昭和36年)、以来今日まで綿々と変わらず製造され続けている。それは栄久庵が敗戦直後の願望が篭められ、日本の伝統的な優雅さをもつと同時にモダンでもある。原爆は栄久庵の妹を殺し、僧侶だった父は放射能病の後遺症で苦しみ一年後に亡くなった。直後、栄久庵は京都で僧侶になるべく短期間だったが修行した。

しかし直ぐに彼は修行を打ち切った。焼け跡を行き交いしていた進駐軍兵士たちを見て感心したからだ。ジープを乗り回すGIたちの軍服は折り目正しくキチンとして、栄久庵の目にはアメリカが創作した『動く展示品』と映り、賞賛を惜しまなかった。新聞に連載された輸入マンガブロンディをむさぼり読み、アメリカの消費文化を想像した。彼が東京芸術大学、美術学部デザイン科に入学したのは当然の成り行きだった。在学中、彼はクラスメイト達に(我々が)近代日本の生活様式を形造ろう」、と説得し始めた。

例の『しょうゆ注ぎ』が満足できる『なみだ型』に落ち着くまで3年かかった。100種以上の原型を創り、試験が繰り返され、「注ぎ洩れ」の無いビンが完成した。優雅で、単純、そして機能的なデザインは日本を代表する外交官として世界中のレストランや台所で愛用されるようになった。過去60年間に、70カ国で総計3億本のしょうゆ注ぎが出回ったことになる。

2007年(平成19年)、製造元のキッコーマンは、アメリカ市場での発売50周年を記念し、金色のキャップを特製した。また、工場見学に来た学童のために『おみやげビン』としてミッキー・マウスが付いたビンも用意した。だが原型のビンは依然として不動の地位にある。

栄久庵憲司はキッコーマンしょうゆ注ぎビンのデザインについて、「私にしてみれば、『ビン』は新日本を代表していると同時に「本当の」日本も代表しています。形は優雅そのものです。戦争中、私たちは違った(註:武骨な)思想を強制されていました。でも日本の長い歴史で少なくとも千年ほど、日本人はとても優雅だったのです」と語った。
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GKインダストリアル・デザイン研究所の発端について
昭和22年、旧制専門学校、国立東京美術学校を最後に音楽学校と合併し、昭和24年に芸術大学美術学部と音楽学部と改めて新発足した。栄久庵憲司はその第3期生で、美術学部図案科(現、視覚デザイン科)を専攻した。
美術学生は伝統的に個人主義で、栄久庵憲司が計画した『チームワーク』という発想は画期的な行為であった。チーム仲間は栄久庵の同級生、曽根靖史(そね・やすし)、4期生の岩崎真治(いわさき・しんじ)と柴田献一(しばた・けんいち)らとの4名。小池岩太郎(こいけ・いわたろう)教授を顧問にしたので、敬意を払ってそのイニシアル『GK』をチームの名称にした。(教授の愛称が「がんたろう先生」)
いずれもまだ在学中の学生だった頃で、最初のプロジェクトは『毎日工業デザイン賞』への挑戦で、チームは『電動モーター』を主題として調査研究し、デザインし、提出し、審査され、見事に最高賞を獲得した。
これが同チームの出世作となり、爾来本格的なデザイン活動に入った。[編集:高橋 経]

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