2011年11月1日火曜日

酒はナミダか金脈か:終章


私が子供の頃『泥棒、巡査』というゲームがあった。正にアメリカで禁酒法の真っただ中の時代だった今でもコンピューターで同じようなゲームあるらしい。でも、コンピューターという名さえ無い時代のことだ。子供達が集まって誰が泥棒で誰が巡査になるかジャンケンで決める。泥棒にはなりたくはないが、ジャンケンで決められ、不平を言わずに泥棒になり巡査から追われる身となる。実際に盗みを働いたわけではないから、後ろめたい気持ちは毛頭なく「逃げ隠れて」巡査の裏をかく行為に、意外とスリルを味わい、楽しんでいた思い出が残っている。

『禁酒法』違反も、盗みを働いたわけでもなし、代価を支払って買った酒を呑んでいるのだから、罪悪感は殆どなく、多分、取締官の目を逃れるスリルと共に味わう酒は格別だったのではなかろうか。

『禁酒法』が善法だったか悪法だったか決めつけることはできないが、機能しなかったことは歴史の事実である。それにつけても『飲酒の悪』が依然として問題になるのは未来永劫変るまい。飲酒運転で他人を殺傷してしまう事故が毎日のようにどこかで起こっている。果ては自分自身がアルコール中毒で心身共に健康を損ない、家族の生活をみじめにし、不幸に陥れている人々がこの世の中に数え切れないほど存在する。『禁酒法』の趣旨は、そうした不幸を無くすためだったのだが、法律で改善できる問題ではなかったようだ。
編集:高橋 経

禁酒法(PROHIBITION)
第3部:偽善者だらけの国家 (A Nation of Hypocrites)
製作:ケン・バーンズ/リン・ノヴィック(Ken Burns & Lynn Novick)  

『禁酒法』が発効して6年経った1926年6月26日、ニューヨーク選出の国会議員、フィオレロ・ラ・ガールディア(Fiorelo La Guardia:右の写真)が公開の席上で「『禁酒法』は役立たずで無能な法律である。あの法を成立させた連中は偽善者だ」と決めつけ、席上で堂々とウィスキーをなみなみとコップに注ぎ、飲み干して見せた。この一件は、大々的に報道されたが、ラ・ガールディアを攻撃する人はなく、官憲も彼を逮捕するはっきりした罪状も見付からず、手をこまねいて関わり合わなかった。

ラ・ガールディアの発言が火を付けたわけではなかろうが『禁酒法の廃止』を公に主張する政治家がぼつぼつと現れてきた。アメリカ主流の政党が共和党と民主党の二大政党であることはご存知の通りだが、『禁酒法』の憲法18条改正を推進した大統領ハーディング(Warren G. Harding)と、後継のクーリッジ大統領(Calvin Coolidge)が共和党だった。民主党の政治家たちが、それに対抗する意図をもって『禁酒法の廃止』を公約に掲げたということに疑いの余地はない
大小のスピーク・イージー。中央上の『のぞき窓』で客を確かめてから扉を開ける。
政治的な『廃止論』は後段にゆずるとして、現実にはサルーンの消滅に取って代わって発生したもぐりのクラブ『スピーク・イージー(SpeakEasy)』は、マンハッタンだけで当初1万軒以上と推定されていたが、一軒取締りの手入れで閉鎖されると、2軒の新しいクラブが開店するといった有様で、1926年頃には推定3万2千軒の秘密クラブがあったという。
そのクラブの規模は大小ピンからキリまであったが、『ピン』で代表的なのはハーレムのコットン・クラブ(Cotton Club)を始めとして市内に散在した豪華クラブで、それぞれジャズ演奏バンド、歌手、ダンサー、などの芸能人を看板を掲げた。こうしたショーは表看板で、酒類や食事のサービスを提供していた。勿論、厳重な会員制度で、取締りに対しては手入れ情報のを得たり、用心棒を雇ったりし、警戒も怠らなかった。客筋は白人に限り芸能人はデューク・エリントン(Duke Elington:上、左から2番目の写真)を始めとし、才能豊かな黒人の登竜門でもあった。
時代は正に好景気の絶頂、市民の懐は豊かで、放埒な消費を楽しんでいた。女性の職場も増え、収入を得た彼女ら多くの夢は、男友達に連れられてクラブへ忍び、禁制の酒を飲むスリルにあった。性の解放もこの時代で見逃せない社会現象だ。
有名人になったカポーン
一方こうした需要に『供給のカギ』を握っていたギャング組織の縄張り争いは激化の一歩をたどっていた。1929年2月14日、シカゴ南区域のギャング数名が銃撃され『セント・ヴァレンタイン・ディの殺戮(The St. Valentine Day Massacre)』と名付けられた事件が起きた。この凶悪な犯行を指示した疑いが、『南』と縄張りを画していた北地域のボス、アル・カポーン(Al Capone)にかかった。カポーンは同日、確たるアリバイがあった。以来、クーリッジ大統領が連邦警察に『禁酒法』違反の最大犯人であるカポーンを逮捕するよう絶対指令を発し、最終的にやっと『脱税』の疑惑で起訴した。

折も折、大統領選が始まり、クーリッジを受けて『禁酒法』を確保し続ける共和党候補、ハーバート・フーヴァー(Harbert Hoover)に対して『禁酒法の廃止』を掲げた民主党候補アル・スミス(Al Smithの写真とカリカチュア)が立った。結果として時期尚早、スミスが破れ、フーヴァーが大統領になった。だが国民の選択は『飲酒』の善し悪しによるものではなかった。実際の統計では飲酒賛成派の数は禁酒派の3倍を示していたのである。


ここで見逃せないのは、『禁酒法の廃止』に立ち上がったポゥリン・サビン夫人(Pauline Sabin:右の写真)である。彼女はロング・アイランドの西端に広大な地所を持つ富豪の妻で、共和党を支持し、二人の息子の将来を思って『禁酒法』に賛成していたのだが、息子たちが成長するにつけ考えが変り、同法の無意味さを認識した。財力や発言力を充分に利用し『禁酒法改正全国婦人団体(Women's Organization For National Prohibition Reform: WONPR)』を結成し、全国的に集会を開き、『改正』の必要性を説いて歩いた。
左から:慈善事業のスープをすする失業者;セントラル・パークに出現した貧民村;スープの列に並ぶ貧困者
1929年の秋、突然アメリカの株が暴落し、世界的な経済恐慌が襲った。多くの銀行が倒産し、享楽を楽しんでいた人々は財産を失い、1千500万人以上が失業し、農家は不作で日々の食事にもことを欠いた。

サビン夫人の『禁酒法改正』キャンペーンと、経済恐慌が『禁酒法の廃止』への気運を盛り上げ広まった。

1932年、大恐慌は3年目に最悪の状態に陥っていた。機を見るに聡いニューヨーク州知事、フランクリン・ルーズヴェルト(Franklin D. Roosevelt:左の写真)が民主党選抜の大統領候補となり『禁酒法の改正』のみならず、『失業対策』を公約に掲げて選挙戦に臨み、圧倒的に多数の票を獲得して32代目の大統領に選ばれた。そして、1933年3月22日、大統領が署名し、13年と2ヵ月続いた『禁酒法』時代は終わりを告げた。


禁酒法の廃止を祝う飲酒派の男女


しかし現在、そして未来永劫に『飲酒の害』は依然として続いていることを忘れることはできない。
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編集から:3回にわたったこのブログは6時間ビデオのほんのあらすじに過ぎません。数々の興味深いエピソードは殆ど割愛しました。『禁酒法の成立から廃止まで』全てをご覧になりたかったら、下記のビデオ、本を公共テレビのサイト(shopPBS.org)からお求めになることをお薦めいたします。

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1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

酒、タバコ、ドラッグ、、、いずれも人間の生活に全く不必要な存在なのに、、、。これらが有って人生が楽しい、とおっしゃるのなら、これらが無くて楽しい人生をご存知ない不幸に気が付いていないことになります。