2010年9月6日月曜日

地鳥(ヂドリ)の味覚

汚染した卵

先週来、アメリカの中西部、特にアイオワ州で大量の卵が汚染していることが大事件となり、小売店に出回ってしまった卵全ての回収を急いでいる。ただの汚染なら、下痢の症状くらいで少々苦しむだけだが、この汚染はサルモネラ菌(salmonella bacteria)という殺人的なバイキンである。何十年か前に、キャムベル製、缶詰スープ(Campbell Soup)がサルミネラ菌で汚染し、多数の死者を出したことがある。


今回の汚染卵の回収事件で明るみに出たのが、巨大化した養鶏産業の実体だった。調べが進むにつれ、『ニワトリ小屋』ならぬ『ニワトリ産卵工場』自体が『汚染』そのものだった。無数のモグラ、ネズミの穴が工場の内部で見付かり、ゴキブリがぞろぞろ、巨大な工場内には、何千何万羽という卵を産むためだけに生きているニワトリが産卵棚に所狭しと果てしなく並び、そのトリ達が糞尿にまみれていても洗浄する手間は省かれ不潔そのものだった。バイキンが発生するのは当然の成り行きだった環境を横目で見ながら、経営者たちは『衛生面』を完全に無視していたようだ。


こうした量産経営は、器械産業が19世紀の末期に勃興して以来、経営者たちは次第に製品の品質は二の次にし、より多くの数量を販売して利潤を上げることに没頭し、それがアメリカ産業経営の伝統となり定着してしまった。今日では、この『利潤追求』を優先する経営方針が、器械産業内だけでなく、農業経営や畜産経営にまで及んでいる。


そうした企業情勢にあって、品質を優先する経営者が存在することは特筆に価する。


日本人の肉食

下に掲げた記事の中で、ニューヨークに在住の『料理通』なる日本人が語った「日本人は19世紀の末まで、トリ肉は食べなかった」という説を紹介していた。食文化に関して浅学な私でも、この説には首を傾げた。私の知る限り、日本人は建て前として四つ足の動物を食べない習慣があり、牛肉を食べ始めたのが西欧文化がなだれ込んだ明治の文明開化の時代で、正に19世紀の末だったことは確かだ。『好き焼き』を発明したのもその時だった。


しかし、中世に遡るとイノシシ(四つ足)を狩り、『山クジラ』と称して食べていたし、キジなどの野鳥を捕獲して食べていたとも聞いた。またウサギ(四つ足)をトリに見立てて一羽、二羽と数える習慣を考え出した。と言うことは、トリ(二本脚)なら食べても差し支えない、という道理が成り立つ。『トリ鍋』も古来からの料理だったはずだ。従って「トリを食べる習慣がなかった」とは考えられなかったので、その個所だけ削除した。もし日本人の肉食習慣に詳しい方がおられたら、正解をお知らせいただきたい。
編集:高橋 経

ニワトリ小屋の新顔、ヂドリ・チキン

ジェニファー・スタインハウアー(Jennifer Steinhauer)

2010年4月20日、NYT紙掲載から


ロサンゼルス発:当地の料理は、市に住んでいる人種のバライエティの如く、お国柄や地方色の豊かな様々な味覚が揃っている。それは春に雨が降り、秋に森林火事が燃え盛るような確かさで様々な舌を楽しませてくれる。曰く柿、曰くメイヤー・レモン、そして曰く地鳥(ヂドリ)

ヂドリは-----日本では放し飼いのニワトリとして知られているが、ごく最近まで、ロサンゼルス地方以外のアメリカでは殆ど聞いたことがない新種-----カリフォルニア、サンタ・モニカ(Santa Monica)のメリサ(Mélisse)』のメニューにあるのは、ヂドリを野菜の根(大根、ニンジンなど)と煮込んだ料理である。ロサンゼルスのハトフィールド(Hatfield)』では、バターミルクで蒸したヂドリの胸肉が献立表に載っている。ウエスト・ハリウッド(West Hollywood)のBLTステーキLA』では、トリのレバー・パテ(pâté)が出される。ビバリー・ヒルズ(Beverly Hills)のフォー・シーズンズ(the Four Seasons)』の献立では、ラピリとカネリニ風味でローストしたポロ・ラクチーズ(pollo Lucchese)で味付けされたヂドリが用意されている。ロサンゼルス市リトル・トーキョー(Little Tokyo: 日本人街)のコケコッコー(Kokekokko)』の特選は、ヂドリ料理一本やりを看板にしている。

この現象は、地元産の材料に徹するという姿勢に基づいているわけだが、何と言ってもその新鮮さは比類がない。

ロサンゼルスラクエス( Lucques)』スザン・ゴイン(Suzanne Goin)「ロサンゼルス一帯で、ヂドリほど超新鮮で、地方色豊かで、自然に育ったトリは見当たりません」と断言する。彼女の店では、柔らかく調理したヂドリの胸肉にエンドウ豆を添えたメニューを「こうすると、本当に『トリらしい』味が楽しめます」と自慢にしている。


ヂドリは、カリフォルニア州で農業が盛んな中央峡谷の農業地帯で、僅かな養鶏業者によって生産されている。
ヂドリの餌は野菜に徹し、抗生物質は一切使っていない。

養鶏業者の一人デニス・マオ(Dennis Mao:左の写真)「トリはただ育てるだけでなく、トリと通じ合う『何か』が必要です」と説明する。トリは大きな納屋で養育されるが、隣接した牧草地に解放されて自由に走り回っている。その時期が済んでから、トリはロサンゼルスの加工場(屠殺場)へ送られる。

こうしたトリの最大の特長は『新鮮さ』にある。いわゆるロサンゼルスの『地方産』であることが期待されているので、
ヂドリの仕上げは街の中心部、デニス・マオの小さな加工場で、生きたヂドリが到着するのが真夜中の午前2時である。その地帯はかつて食品の流通市場だったが今は大半が衣料品工場に転身した地区になった。連邦政府、農業畜産部門の検査官に監視されながら、全ての屠殺や加工が手作業で行われている。加工されたヂドリは大きな冷水桶で冷やされる。大方の量産加工者は大量のトリを水漬けにするので凍って突っ張ってしまう。

加工では、この段階が
ヂドリの風味を保たせるかどうかの鍵で、デニス・マオ「政府の規制では水漬け10パーセントまで許可していますが、私は2パーセントに止めています」とのことだ。

その過程が済むと、デニス・マオは直ちにレストランの料理人の元に届ける。カリナ(Culina)』のシェフ、ヴィクター・カサノヴァ(Victor Casanova)「あのトリは私が調理する12時間から24時間前に屠殺されているはずです。私の手許へ届いた時はまだ頭も脚も付いています。変な話ですが、ぎょっとするほど素晴らしい格好をしています」と感嘆を惜しまない。

ヂドリの需要は3段階に分けられる。一番の売れ筋は、コーニッシュ・クロス系(Cornish-cross)の『大型』トリだが2キロ以上のものはない。次が細身で肉がしまったタイプ、、、アジア系のシェフが好む。最後が卵を生んだ雌ドリで、肉が硬いので保存用にする。

過去1年間あるいはそれ以上、デニス・マオ『ヂドリ』チキンは、ロサンゼルスだけに留まらず、シカゴ、シアトル、にある限られたレストラン、更にニュージャージー州のイングルウッド(Englewood)にあるみつわマーケットの小売り用にも出荷するようになった。


デニス・マオ「品質を保つためには、これ以上手を広げることはできません」と言う。彼の加工場では一日に5千羽から6千羽を処理している。養鶏では巨大企業のタイソン(Tyson)に比べたら微々たる規模である。「私の加工場は養鶏場から直結で、24時間以内に発送します。ですからお客様には、一週間も前からご注文なさらず、調理の前日になさるよう、お願いしています」と新鮮さを強調する。

デニス・マオ『ヂドリ級』チキンを販売し始めたのが1995年(平成7年)、彼はレストランのシェフ達が、放し飼いのトリを屠殺した直後に調理したいと望んでいるに違いないと信じていた。


「肉質と新鮮さが大切だということを私は知っていました。トリ肉は動物性タンパク質を安価に補給してくれますが、安いからといって、あまり軽々しく扱いたくなかったのです」と言うデニス・マオは、カリフォルニア大学バークレー校(The University of California, Berkley)で法律を専攻した。卒業し、家業の小規模な食品流通業で働いていた。


1980年代に父親が倒れ、途端に自己の決断に迫られた。家業では、各種の肉類やタンパク質製品を卸していたが、彼はニワトリ業に専念することにした。というのも中国系アメリカ人の味覚としては、量産されたトリの無味乾燥な味に失望していたからである。そこで、脂肪が少なく新鮮なトリ肉、すなわちヂドリを売り始めた。当初、唯一の買い手は日本料理店のシェフだけだった。「まるで氷をエスキモーに売りつけるような商売でした」と苦笑する。


1990年代の殆どは、ヂドリを詰め込んだ冷蔵庫を積んだトラックを運転し、売り込みに走り回って過ごした。片端からシェフを掴まえては、美味しいトリ肉には少し余分なお金を払っても、それだけの価値がありますよ、と説得し続けた。当時はまだ、高額を支払っても良いものを選ぶという考え方をする人は少なかった。


デニス・マオが初期に説得した人にウォルフガング・パック(Wolfgang Puck註:有名なシェフで、その名が付いた陶器も売り出されている)がいた。ひと度その道で名が通った数人のシェフを常連の得意先にしたら、そのシェフ達やその仲間達がマオのヂドリを方々へ吹聴してくれた。先述したBLTステーキブライアン・モイヤーズ(Brian Moyers)も説得された一人で、彼の仲間の誰も彼もが口々にヂドリを使え」と騒いでいたのでヂドリ党になった。(左の写真はスパゴSpagoのシェフがヂドリのローストを調理中)

徐々にだが、デニス・マオの事業は伸びていった。弟のエリック(Eric)を営業部長に据え、自身でトラックを運転する代わりに数人の配給業者が走り回ってくれた。事業が順調に広がるにつれ、模造品ならぬ模造トリが市場に現われ始めたので、商標を登録する必要が生じた。

かくして、マオ兄弟ヂドリ販売への情熱がその事業を発展させていった。2008年の末、デニス・マオは事業の一端としてウエスト・ロサンゼルスの日系アメリカ人が住んでいる地区に『炉端屋(Robata-Ya)』を開店した。そこでは、串焼き鳥(chicken skewers)、ヂドリ・レバーの刺身(さすがに余程の『通』でなければ注文しない。それも日本人に限られているようだ)ヂドリ・カシラの蒸し煮、動脈付きヂドリ・ハツの鉄板焼き、などを献立てに入れている。

「言うなれば、小さな『
ヂドリの解剖室』といった所ですね。ヂドリを使ってどんな料理ができるか試しているんです」デニス・マオは満足げに笑うのだった。

写真撮影は: Stephanie Diani, Axel Koester for The New York Times

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

あまり懐が豊かでない消費者として、量産チキンの安値に甘んじているが、『新鮮で美味な』ヂドリや、アーミッシュのチキンを食べてみたいとは思う。手近かにないのが難点だが、、、。