中銀のカプセル・タワー(日本、東京)[ Nakagin Capsule Tower (Tokyo, Japan)]
攻撃的な家 (オーストリア、ウィーン)[Erwin Wurm: House Attack (Viena, Austria)]

津田梅子の父津田仙(1837~1908 右の写真)は、幕末佐倉藩士であった。彼は、1867年(慶應3年)、勘定吟味役小野友五郎(1817~1898)の随員として福澤諭吉(1834~1901)らと米国に赴いた。渡米中、津田仙が特に感銘を受けたのは、農業が学理的に行われていること、国民が四民平等で何ら尊卑の区別がないことの二点だった。また、1872(明治5)年、6歳の二女梅子の留学を考え、西欧の文化に触れさせたのも、この訪米の感銘によるものだった。
ジョージ・ブレスウェイトは、英国聖書教会の日本責任者となり、キリスト教書類会社を経営した人物で、初来日は、1886年(明治19年)5月21日だった。「透谷全集第三巻」693頁にその初来日を「1886年の早春であった」とするのは、何かの間違いだろう。
さらに平和活動に関して言えば、1891年(明治24年)5月、ジョージ・ブレスウェイトは、懸賞問題平和雑誌(Prize Peace Tracts)を横浜製紙分社から発行した。これは全部で12号からなっている。たとえば第1号の「平和の白き羽」では、アメリカの先住民族が武器を持たない農夫の家に「白い羽」を目印に付けて行った話やペンシルバニア州建国の父ウイリアム・ペン(William Penn 左の写真)など非戦平和主義のクエーカーについて書いている。
ル・ネーム省略)と結婚し、来日した。 ウイリス・ホイットニーは、父ウイリアム((William: 1825~1882 右の写真:ウイリスの父と二人の妹)、母アンナ(Anna: 1834~1883)の長男として、1855年(安政2年)10月18日、アメリカのニュージャージー州ニューアークに生まれた。
いた。その商法講習所は、森の依頼を受けた勝海舟(1823~1899 左の写真)の支援や福澤諭吉の尽力もあって、私立として開校されたものだった。けれども、森は、同年11月に清国(現中国)駐在公使として赴任する際、講習所を東京会議所に寄付した。その一年後の1876年(明治9年)9月には、商法講習所の所管が東京府に移されて、これが現在の一橋大学の前身となったのである。
『科学上の貢献』に、医師が布教活動に実りあるものとなる例として「日本における医師団の中で、いずれの伝道団体にも入っていない独立の人」二名を挙げ、その一人にウイリス・ホイットニーの名を掲げている。
新渡戸稲造の兄道郎(1859~1884)も生徒の一人として学農社農学校で学んだ。一方、内村鑑三(1861~1930 左の写真)は、1883年(明治16年)5月から10月まで同校の講師となった。内村は、津田仙を介して、前記のように勝海舟の邸内にあった赤坂病院の眼科医で米国公使館通訳のウイリス・ホイットニーから生理学を学んでいた。それによって内村は、渡米留学に際してウイリス・ホイットニーからフィラデルフィアのクエーカー、ウイスター・モリスへの紹介を得ている。
マス・カーライル(Thomas Carlyle: 1795~1881 右の写真)の『衣装哲学(Sator Resartus Project Gutenberg)』に巡り会う。それを譲り受けて何度も何度も繰り返して読み、カーライル自身の神あるいは聖霊、何者かの声を聞くという神秘的な体験や、クエーカーの始祖ジョージ・フォックスの信仰とも出会った。そして、1881年(明治14年)札幌農学校を卒業後、北海道開拓使御用掛となった。
けれども、向学心の強い新渡戸稲造(左の写真)は、1883年(明治16年)9月、東京大学に入学して、もっぱら英文学、理財、統計学を修業したが飽き足らず一年で退学、1884年(明治17年)、「太平洋の橋」となるべくアメリカに私費留学。アレゲニー大学(Allegany)に入学し、一月ほどでボルティモア市(Baltimore)のジョンズ・ホプキンズ大学(Johns Hopkins)に転学した。それにより、クエーカーとの出会いがもたらされた。ボルティモアでフレンド派の礼拝会に参加した彼は、1886年(明治19年)12月、ボルティモア月会の会員として受け入れられた。日本人友会徒(クエーカー)第一号の誕生となったのである。
これを受けて、フィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会が日本へ派遣した最初のクエーカー宣教師ジョセフ・コサンドに面接した日本人は、内村鑑三であった。 コサンド夫妻(左の写真)は、1885年(明治18年)11月、サンフランシスコを出発、12月1日に横浜に上陸した。クララとアデレードのウイリスの二人の妹がコサンド夫妻を出迎え、たまたまウイリス・ホイットニーが結婚するために渡英していた赤坂の留守宅に旅装を解いた。翌1886年(明治19年)2月には、コサンド夫妻は麻布新堀町の津田仙の邸内に居室を借りて、直ちに伝道事業を始めた。新婚のウイリス・ホイットニー夫妻がイギリスから来日したのは、同年2月20日だった。姉の初来日は弟ジョージ・ブレスウェイトよりも3カ月早かった。
この1887年(明治20年)2月に、ジョセフ・コサンドは、津田仙が麻布本村町に建てた洋館(上、校舎の左端の建物、1912年に焼失し、その後建て直した。;左下は最初の教師と卒業生の全員)に移った。その洋館は、1883年(明治16年)12月で経済的な蹉跌のため廃校のやむなきに至ってしまっていた農学校を取り壊すことによって、の建
築資材を活かして建てられたものだった。そして、同年10月3日に、住居としていた洋館の一部を仮校舎として、教師6名、女生徒3名をもって女性のための普連土女学校を開校したのである。
津田仙の二女梅子(1864~1929 左、6才で留学当時の写真)は、5人の女子留学生第一号の一員として、1871年(明治4年)、岩倉具視を大使とする遣外使節団(開拓使)一行と共に米国に渡り、ジョージタウン(Georgetown)のチャールズ・ランメン(Charles Lanman)夫妻宅に滞在、初等、中等教育を受けた。彼女は11年後の1882年(明治15年)、山川捨松と共に帰国した。後年大山巌夫人となった山川捨松を受け入れたニューヘイブン(New Haven)のレオナルド・ベーコン牧師の家は、ウイリアム・コグスエル・ホイットニーの従兄弟でエール大学言語学教授のウイリアム・ドワイト・ホイットニー(William Dwight Whitney)家の真向かいにあった。
クララ・ホイットニーが津田梅子の希望をフィラデルフィアの知人ウイスター・モリス夫人メアリーに伝え、どこかフィラデルフィアの近くに適当なところはないだろうか、と問い合わせた。そこから話はとんとん拍子に進み、梅子のブリンモア大学留学が決まるのである。
ジェームズ・E・ローズとの交渉の任に当たってくれた。ローズとブレスウェイト、ハーツホーンとの関係は前記のとおりである。ちなみに、戦後普連土学園の理事長・校長職を担い、エリザベス・ヴァイニング夫人の後任として皇太子殿下(現天皇陛下)の英語の家庭教師として1950年(昭和25年)から1958年(昭和33年)まで務めを果たしたエスター・B・ローズ(Esther B. Rhoads: 1896~1979 左の写真)の大伯父が、このブリンモア大学の学長ジェームズ・ローズであった。
一方、新渡戸稲造は、札幌農学校助教に任命され3年間のドイツ留学のため1887年(明治20年)5月15日ニューヨークを出発した。ボン大学、ベルリン大学(現在のフンボルト大学)、ハレ大学(Halle)に学び、1890年(明治23年)6月28日に学位を得てアメリカに戻った。このドイツ留学中にラヴレー博士に日本では宗教なしでどうして道徳教育を行うのか、と問いかけられたのがその後『武士道』を著す動機となった。
新渡戸稲造がカリフォルニア南部に到着したのと同じ年の夏、1898年(明治31年)6月24日にデンバーで開催された世界女性クラブ会議に出席した津田梅子は、同年9月にフィラデルフィアのモリス邸を訪問した。そして新たな学校開設のために支援を要請したのである。これを請けて津田梅子の学校を支援する『フィラデルフィア委員会』が設立され、メアリー・モリスが会長に就任、アナ・ハーツホーンが書記に選出された。
『武士道』の発刊を見届けて、同年2月、ニューヨークを出立した。

新渡戸稲造(にとべ いなぞう)
津田梅子(つだ うめこ)
その画家の名はジュゼッペ・アーチムボルド(Giuseppe Arcimboldo 上の図は自画像)、1527年にミラノで画家の息子として生まれた。1549年、22才以降ステンドグラスのデザインを始め、ミラノに多くの作品を残している。1556年、ジュゼッペ・メダ(Giuseppe Meda)と共にモンツァ大聖堂(the Cathedral of Monza)のフレスコ画を制作。1558年には聖母マリアを描いたタペストリーのデザインを手がけたが、そのタペストリーは未だにコモ大聖堂(the Como Cathedral )に飾られている。
★ウェルツムナス(Vertumunus)に扮するルドルフ二世;1590-91年作。アルチムボルドが亡くなる二年前に完成。ルドルフ二世はこの肖像画が大変気に入り、彼に高い地位を与えた。