津田仙は、その最初の訪米の折ヘンリー・ハーツホーン(Henry Hartshorne 1820~1897)のEssentials of the Principles and Practice of Medicine (1867年版)を土産として持ち帰った。この医学書は、1875年(明治8年)、桑田衡平訳で「内科要摘」として出版され、当時の日本で重宝がられた。後にはこの翻訳の機縁もあり、1893年(明治26年)10月2日、初来日したクエーカーのヘンリー・ハーツホーン、アナ・ハーツホーン(Anna Hartshorne)父娘と、津田仙、梅子父娘との親交が始まった。 ハーツホーン父娘の初来日時には、イギリス人クエーカーのジョージ・ブレスウェイト(George Braithwaite: 1855~1931 右下の写真)夫妻も同船していた。
ジョージ・ブレスウェイトは、英国聖書教会の日本責任者となり、キリスト教書類会社を経営した人物で、初来日は、1886年(明治19年)5月21日だった。「透谷全集第三巻」693頁にその初来日を「1886年の早春であった」とするのは、何かの間違いだろう。 この船に乗り合わせる前、北村透谷(1868~1894)を通訳としてフレンド派の茨城県下水戸地方伝道に果たしたブレスウェイトの役割は大きい。一方、築地の路傍伝道で山室軍平を後年救世軍に導いたのも彼であり、1889年(明治22年)8月、英国平和会の前書記ウイリアム・ジョーンズ(William Jones: 1826~1899)が、銀座木挽町の厚生館(明治会堂)で、日本初の平和講演会を行った際に準備したもの彼だった。 この平和講演会を契機に、同年11月、ジョージ・ブレスウェイト、加藤萬治、石塚伊吉、北村門太郎(透谷)らが日本平和会を設立して、雑誌「平和」を発行し、戦争反対とキリスト教の伝道を志した。「平和」の編集・発行を、加藤萬治と北村透谷が担当し、この年の暮に、水戸で伝道を目的とした講演を行ったのである。 さらに平和活動に関して言えば、1891年(明治24年)5月、ジョージ・ブレスウェイトは、懸賞問題平和雑誌(Prize Peace Tracts)を横浜製紙分社から発行した。これは全部で12号からなっている。たとえば第1号の「平和の白き羽」では、アメリカの先住民族が武器を持たない農夫の家に「白い羽」を目印に付けて行った話やペンシルバニア州建国の父ウイリアム・ペン(William Penn 左の写真)など非戦平和主義のクエーカーについて書いている。
ところで、ハーツホーンの家系は、ジョージ・フォックス(George Fox: 1624~1691)の時代にアメリカに渡ったクエーカーであった。また、ブレスウェイト家も同時代からのイギリスのクエーカーだった。 ジョージ・ブレスウェイトの父ジョゼフ・ベヴァン・ブレスウェイト(Joseph P. Braithwaite: 1818~1905、以下、ミドル・ネーム省略)は、1844年(天保14年)にフレンド派のミニスター(巡回伝道師)となり、母アンナと同じように登録された。ジョゼフは、1851年(嘉永4年)にマーサ・ジレット(Martha Gillet)と結婚したが、彼女もミニスターとして活躍した熱心なクエーカーだった。 ジョゼフ・ブレスウェイトは1865年(慶応元年)に最初の訪米を行った。彼は、この最初の訪米でフィラデルフィアのウイスター・モリス(Wistar Morris)邸を訪ね、また、フレンド派のハバフォード大学(Haverford College)にも立ち寄った。ヘンリー・ハーツホーンは同校の卒業生で、医師でもあった。 19世紀になると、世界的な福音主義の浸透によってイギリスのクエーカーは、1869年(明治2年)ロンドン年会総会で海外伝道の必要性を議論した。それによってジョゼフ・ブレスウェイトは1876年、78年、84年、87年にも渡米した他、アイルランド、ヨーロッパ諸国、カナダその他の国々を回り、英国聖書協会からの派遣ではトルコ、シリア、エジプト、小アジアまで足を伸ばした。彼は、後年、津田梅子が留学し、ヘンリー・ハーツホーンが弔辞を読んだフレンド派のブリンモア大学(Bryn Mawr College)の初代学長ジェームズ・E・ローズ(James E. Rhoads: 1828~1895)とも親しくなり、1887年にインディアナ州リッチモンドで開かれたクエーカーの会議でリーダーになった。そこで彼の起草した信仰箇条が「リッチモンド信条」とされ、これを承認したその地方の年会が1902年(明治35年)に「五年会」を組織するようになった。 しかし、リッチモンド信条は、プロテスタントの信仰に近く、彼の属したロンドン年会では、この信条を歓迎しなかった。フィラデルフィア正統派年会にも積極的には支持されず、ヒクサイト(Hicksight Society of Friends)に属する年会からは一切受け付けられなかった。だが、日本の基督友会は、1894年(明治27年)、日本年会を組織するに際して、これを参考にしたのである。 ジョージ・ブレスウェイトの実姉がメアリー・カロライン・ブレスウェイト(Mary Caroline Braithwaite: 1857~1935)だった。彼女は、1885年(明治18年)12月29日、ロンドンのブレスウェイト家でウイリス・ノートン・ホイットニー(Willis Norton Whitney: 1855~1918; 以下、ミドル・ネーム省略)と結婚し、来日した。ウイリス・ホイットニーは、父ウイリアム((William: 1825~1882 右の写真:ウイリスの父と二人の妹)、母アンナ(Anna: 1834~1883)の長男として、1855年(安政2年)10月18日、アメリカのニュージャージー州ニューアークに生まれた。 ウイリス・ホイットニーが、両親や妹二人と共に、オーシャニック号で初めて横浜に着いたのは、1875年(明治8年)8月6日のことだった。日本に到着した一家にとっては、ウイリアムが校長になるはずの約束だった公立の商法講習所が、予め設立されていなかったので生活は苦しかった。だが、9月に森有礼(1847~1889)の私立学校である商法講習所の教師に就いた。その商法講習所は、森の依頼を受けた勝海舟(1823~1899 左の写真)の支援や福澤諭吉の尽力もあって、私立として開校されたものだった。けれども、森は、同年11月に清国(現中国)駐在公使として赴任する際、講習所を東京会議所に寄付した。その一年後の1876年(明治9年)9月には、商法講習所の所管が東京府に移されて、これが現在の一橋大学の前身となったのである。 一方、そのためにウイリアム・ホイットニーは解雇された。津田仙は、ウイリアムに収入を得させるため、自ら経営していた銀座の簿記夜学校にウイリアムを教師として雇った。それによって、彼は英学、簿記法、算術を1879年(明治12年)12月の帰国時まで教えられることになり、一家は糊口をしのぐことができたのである。また、ウイリスの母アンナは、日曜の夜ごとに、工部大学や開成学校の教師を招いては説教会を開いたが、その会には勝海舟や津田仙などの子女たちも列席していた。
ところで、ホイットニー一家には、再来日の途中、大きな不幸が待っていた。父のウイリアム・ホイットニーがロンドンで客死したからである。その時一家を助けたのが、ジョゼフ・ブレスウェイトだった。ウイリスは父をロンドンのハムプステッド墓地(Hampstead)に葬って、母や妹二人と共に1882年(明治15年)11月18日、再び横浜に着いた。ウイリス27歳、クララ(Clara)22歳、アディ(Adelain)14歳だった。ジョゼフ・コサンド(Joseph Cosand: 1852~1932)夫妻の来日に先立つ三年前のことである。彼らが早速、11月20日に勝海舟を訪ねたところ、元の家に戻ってはどうか、と勧められた母子は赤坂の海舟の邸内に住むことになった。 ところが、翌1883年(明治16年)4月17日、ウイリス・ホイットニー兄妹の母アンナが、父ウイリアムの後を追うかのように、内臓疾患で痛みに苦しめられながら赤坂で死去。青山霊園外人墓地第一号地に埋葬された。49歳だった。墓碑には勝海舟の手で「骸化土霊帰天 ホイト子―氏 親友 勝安芳拝誌 “The just shall live by faith.”」、裏面に「義人必由信而得生 録聖書之語」と刻されている。 墓で言えば、そのすぐ隣にジョージ・ブレスウェイト夫妻の墓があり、少し離れたところには1897年()2月11日に急逝したヘンリー・ハーツホーンの「津田塾大学恩人Anna C. Hartshorneの父」と墓前に刻んだ墓がある。また、通路の反対側には、新渡戸稲造の叔父で養父の太田時敏の墓もある。
さて、ウイリス・ホイットニーは、1883年(明治16年)、在東京米国公使館通訳に任命されたが、一方では医者としての活躍も始めた。その3年後の1886年(明治19年)には、母アンナの死に贈られた弔慰金や、親戚、朋友、内外の慈善家からの義捐金をもとに、勝海舟から赤坂氷川町の土地を購入した。そこで医療活動をも開始した。赤坂病院である。公使館在勤中は明治中期の日本の指導的政治家たちと面識を得、1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布の日には、彼もアメリカ外交団の一員として夕べの大宴会に出席した。こうした在東京米国公使館通訳の期間は、12年間に及んだ。 この間、彼は医者として1884年(明治17年)、英文で『日本医学史』を著した。これは富士川游の『日本医学史』(明治36年刊)に先立つものとして評価されている。同年10月からは、現慈恵医大の前身である略称「成医会」(「日本医学発展協会」英文名Society for the Advancement of Medical Science in Japan)の幹事となった。1885年(明治18年)1月、成医会文庫の設立に際しては、唯一の外国人として参画している。1886年(明治19年)発行の『ヘボン辞典』第三版では、宣教師O・H・ギューリックと共にウイリス・ホイットニーが改訂者になった。1888年(明治21年)11月には『ヘボン辞典の漢字索引』を著し、日本語の名詞を漢字の部首で並べ、それが『ヘボン辞典』第四版の何頁にあるかを示した。これによって、彼は来日していた宣教師の日本語研究の手間を省くことができるようにした。そのための貢献にも大きな足跡を残している。 ウイリス・ホイットニーの公使館通訳業務の一環として、宣教師を含めて日本国内を旅行する外国人のために許可証を発行する役目もあった。そこで彼は、1889年(明治22年)6月『日本における主要道路、主要都市、郵便局簡易辞典』を丸善商社商店から発売した。同著の編集は、日本国内に不案内な外国人に対する援助及び福音を広めることの助力を目的としていた。ウイリス・ホイットニーは、これらの二冊に加えて、多年にわたり主要医学雑誌に寄稿したり、日本の各医学雑誌やワシントンの国務省に論説を提出したりしていた。 片や、467頁に及ぶ『日本における医学進歩史摘要』を著し『日本及び西洋における医学進歩に関係または影響する主要事件比較表』や中国と日本の医書の目録を「漢英両語」で挿入した。いずれも、ほぼ4年の間に出版されている。それは、超人的な働きであった。 また他方の業績として、日本の大都市から離れた地方の中学校などへ、英米やカナダから、お雇い外国人教師を招く計画が在日宣教師の間で起った時、ウイリス・ホイットニーは、アメリカ在日公使館勤務の通訳であったところから、米国YMCAを通じて、斡旋の努力を惜しまなかったこともある。この計画によって、1888年(明治21年)米国から、若い3名の大学卒業生が来日した。以来、明治末年までに百名近くの外国人教師が、日本の英語教育に従事、語学力の向上に尽力した。 新渡戸稲造は、ウイリス・ホイットニーのこれらの働きを知っていた。そこで、1890年(明治23年)に著した『日米関係史』第四章『日本におけるアメリカ人およびアメリカの影響』の『科学上の貢献』に、医師が布教活動に実りあるものとなる例として「日本における医師団の中で、いずれの伝道団体にも入っていない独立の人」二名を挙げ、その一人にウイリス・ホイットニーの名を掲げている。 こうした働きをしていたウイリス・ホイットニーが、1895年(明治28年)に通訳職を辞したのは、残りの全生涯を医療伝道事業に捧げるためだった。 さらになお一方では、ウイリスの上の妹クララ(右の写真)は勝海舟の三男梶梅太郎と国際結婚して『クララの明治日記』を残している。下の妹アデレードは『聖書之友』を発行することになり、1884年(明治17年)1月1日から『聖書之友日課表』を作った。これを最後まで助けたのが津田仙その人だった。
新渡戸稲造は、札幌農学校に第二期生として入学したが、1878年(明治11年)6月2日にメソジスト派宣教師M.C.ハリス(M.C. Harris)により同期の内村鑑三らと共に洗礼を受けた。だがその後、1880年(明治13年)7月、最愛の母せきの死に目に合えなかったことに対して良心の呵責を覚え、精神的に悩んだ。しかし、生涯の親友となった内村の友情に励まされて病気療養のために上京した新渡戸稲造は、偶然宣教師M・C・ハリスの蔵書からトーマス・カーライル(Thomas Carlyle: 1795~1881 右の写真)の『衣装哲学(Sator Resartus Project Gutenberg)』に巡り会う。それを譲り受けて何度も何度も繰り返して読み、カーライル自身の神あるいは聖霊、何者かの声を聞くという神秘的な体験や、クエーカーの始祖ジョージ・フォックスの信仰とも出会った。そして、1881年(明治14年)札幌農学校を卒業後、北海道開拓使御用掛となった。 けれども、向学心の強い新渡戸稲造(左の写真)は、1883年(明治16年)9月、東京大学に入学して、もっぱら英文学、理財、統計学を修業したが飽き足らず一年で退学、1884年(明治17年)、「太平洋の橋」となるべくアメリカに私費留学。アレゲニー大学(Allegany)に入学し、一月ほどでボルティモア市(Baltimore)のジョンズ・ホプキンズ大学(Johns Hopkins)に転学した。それにより、クエーカーとの出会いがもたらされた。ボルティモアでフレンド派の礼拝会に参加した彼は、1886年(明治19年)12月、ボルティモア月会の会員として受け入れられた。日本人友会徒(クエーカー)第一号の誕生となったのである。 新渡戸稲造には留学後、1885年(明治18年)6月10日付でクエーカーのマーガレット・W・ヘインズ夫人(Margaret W. Haines)に宛てた書簡がある。その書簡にもよって、フィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道協会(Women's Foreign Missionary Association of Friends of Philadelphia)の会合がモリス邸で開かれて、そこに招かれた内村鑑三と新渡戸稲造の建言によって、アメリカ国内のクエーカーが日本への伝道と教育に強い関心を持つに至るのである。
津田梅子は、帰国後、伊藤博文(1841~1909)家の家庭教師となった縁で1886年(明治19年)に華族女学校の教授となった。だが、さらに留学して研鑽を積むため、1889年(明治22年)にはブリンモア大学(Bryn Mawr College)に再渡米することになった。梅子の二度目の留学となるブリンモア大学入学のためにウイスター・モリス夫人を紹介したのは、ウイリスとクララのホイットニー兄妹だった。 クララ・ホイットニーが津田梅子の希望をフィラデルフィアの知人ウイスター・モリス夫人メアリーに伝え、どこかフィラデルフィアの近くに適当なところはないだろうか、と問い合わせた。そこから話はとんとん拍子に進み、梅子のブリンモア大学留学が決まるのである。 さらに言えば、実はモリス夫人は、梅子がアーチャー・インスティテュート(Archer Institute)在学中から彼女を知っていた。津田梅子がモリス邸(現在のフレンズ・セントラル・スクール)を初めて訪れたのは、帰国直前の1882年(明治15年)2月だった。それは、新渡戸稲造や内村鑑三が留学する以前のことである。だから、内村や新渡戸は、すでにモリス夫人から津田梅子の名前を聞いている。そして、津田梅子はブリンモア大学に入学するため1889年(明治22年)8月に二度目の訪問をしている。これは、彼女が再渡米した時のことである。 そこで、梅子からも留学の希望を記した手紙を受けると、メアリー・モリスは早速、ときのブリンモア大学長ジェームズ・E・ローズとの交渉の任に当たってくれた。ローズとブレスウェイト、ハーツホーンとの関係は前記のとおりである。ちなみに、戦後普連土学園の理事長・校長職を担い、エリザベス・ヴァイニング夫人の後任として皇太子殿下(現天皇陛下)の英語の家庭教師として1950年(昭和25年)から1958年(昭和33年)まで務めを果たしたエスター・B・ローズ(Esther B. Rhoads: 1896~1979 左の写真)の大伯父が、このブリンモア大学の学長ジェームズ・ローズであった。 そしてまた、メアリー・モリスは、梅子から奨学金募集の相談を受けたとき、奨学基金として、8000ドルを集め、その利子で3~4年目ごとに一人の留学生が送れるようにするのがよいと提案し、自身American Scholarship for Japanese Womenの募金委員長となって梅子を助けたのである。
アナ・ハーツホーンと新渡戸稲造夫妻、津田梅子の関係 ヘンリー・ハーツホーンの妻メアリーは1887年(明治20年)に急逝した。その事情やブリンモア大学新設に関する自分の教育者としての情熱乃至は希望をめぐるいきさつもあり、その希望が実現に至らなかったヘンリー・ハーツホーンは、フレンズ・レヴューの編集長を辞めて、娘のアナを伴い初来日した。それが、1893年(明治26年)のことであったのはすでに述べた。 当時、コサンド夫妻によって設立された普連土女学校には、アナのクラスメートで、且つヘンリーの教え子でもあったメアリー・M・ヘインズ(Mary Haines)が教員として滞在していた。メアリー・ヘインズは新渡戸稲造が1885年(明治18年)6月10日付で手紙を出したマーガレット・W・ヘインズ(Margaret W. Haines)の娘である。これに先立ちメアリー・ヘインズはウイスターとメアリー・モリス夫妻と一緒に1890年(明治23年)4月、普連土女学校の教育活動や水戸での宣教活動の視察のために初来日していた。この時の通訳が北村透谷であった。彼女は、その2年後の1892年(明治25年)から2年間、普連土女学校で教えていたのである。 メアリー・ヘインズと津田梅子はすでに親しかった。津田梅子は1892年(明治25年)にブリンモア大学で理学士の学位を得て帰国した。だが、津田梅子の二度目の留学から帰国後、1年を経て、アナ・ハーツホーンが来日し、普連土女学校で教えることになったのだった。 当時の普連土女学校は、津田仙邸内から現在地(港区三田)に移っていた。その教師館にはアメリカから来ていたミネ・ピケット(Minni Pickett; 後のギルバート・ボールス夫人)、イディス・ディロン・ビーマン、メイ・マッカリー、メアリー・ヘインズやイギリスから来日したメアリー・アン・ガンドレーらが居て、外国人教員にとっては津田仙の農園や彼の家族との関係は、全く切り離せないものになっていた。だから津田仙父娘とハーツホーン父娘の親密さも増したのである。
新渡戸稲造は、前記のとおりベルツ博士の忠告もあり、同年10月2日、札幌農学校の教授を辞して、まず伊香保温泉で転地療養することになった。しかし、病は完全には癒えなかった。そのために、万里夫人の勧めもあり、1898年(明治31年)7月、新たな転地療養の地をアメリカの太平洋岸、モントレーのホテル「デルモンテ」を療養先に選んだ。そこに、新渡戸夫妻はフィラデルフィアからアナ・ハーツホーンを呼んだ。それと相前後するが、この間、伊香保温泉で療養しながら新渡戸稲造は「辱けなく高恩を追慕し亡母の記念に此書を捧ぐ」として大著「農業本論」を書き上げて、1898年(明治31年)8月に上梓した。彼の最初の専門書である。これと同時に「日本農業発達史」を論文として発表。翌1899年(明治32年)3月27日、佐藤昌介(1856~1939)と共に東京帝国大学評議会推薦によって農学博士号を日本で初めて授与されるのである。 一方、カリフォルニア南部で気分の良い時には、家庭内で万里夫人からの日本の風習や日本人の考え方に関する質問につき口述したのを、夫妻の友人で彼の秘書でもあったアナ・ハーツホーンが書き取り、また、さまざまな注意を与えながらも、著したのが『武士道』であった。だから、その序文に新渡戸稲造は、執筆の動機について述べた後「この序文を結ぶに当って、私は、友人アナ・G・ハーツホーンに、数々の大切な示唆をして下さったことにつき、感謝を表明したく思う」と書いた。1899年(明治32年)12月のことであった。これが、1900年(明治33年)1月に、『Bushido, the soul of Japan』として、英文で出版されたのである。
その画家の名はジュゼッペ・アーチムボルド(Giuseppe Arcimboldo 上の図は自画像)、1527年にミラノで画家の息子として生まれた。1549年、22才以降ステンドグラスのデザインを始め、ミラノに多くの作品を残している。1556年、ジュゼッペ・メダ(Giuseppe Meda)と共にモンツァ大聖堂(the Cathedral of Monza)のフレスコ画を制作。1558年には聖母マリアを描いたタペストリーのデザインを手がけたが、そのタペストリーは未だにコモ大聖堂(the Como Cathedral )に飾られている。
1562年、アルチムボルドはウィーンで フェルディナント1世(Ferdinand I )の宮廷画家として抱えられ、後にその息子の マクシミリアン2世(Maximilian II)や、孫にあたるルドルフ2世(Rudolf II)にも仕えた。アルチムボルドは画家としてだけでなく、宮廷の装飾や衣装のデザインも手がけ、祝典や競技の企画、水力技師などで非凡な才能を発揮した。楽器、噴水、廻転木馬等も発明した。同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチを崇拝していたというのも頷ける。