2009年1月18日日曜日

経済危機の禍根:その2

自動車産業、その台頭
高橋 経(たかはし きょう)ミシガン州 2009年1月18日

[筆者は
1952年から1994年まで42年間、広告代理店のアート・ディレクターとして主に各種自動車の宣伝に携わってきた。]

揺籃期
『自動車』という乗り物が誕生したのは19世紀の後期から20世紀の初期にかけてであ
る。それまで、馬車が一般的な乗り物だったから、自動車を初めて見た人達は嘲笑をこめて『無馬車(Horseless Buggy)』と呼んだ。誰が最初に自動車を発明したかは不明だ。自動車は、多くの技術者たち創意が相互に啓発し合った綜合的な結晶だったからである。1906年、セルデン製(Selden)の無馬車が、走る人と同じ速度を出したことがニュースになった、と言うと今の若い人達は信じられないであろう。

20世紀初頭の自動車製造は、正にその戦国時代、群小の車製造会社が乱立し、多くが破産して泡のように消えていった。世界の(主に欧米の)技術者たちは改良に改良を重ねて実用に耐える乗り物を作り出した。アパーソン(Appersons)、ヘインズ(Haynes)、ラムブラー(Rambler)、オールズ(Olds)、リーヴス(Reeves)などの名は氷山の一角、今は亡き開拓者の名簿の一部に残っているだけだ。 動力の方法は多様で、機関車と同じ原理のスタンレイ(Stanley)の蒸気機関、バッテリーを搭載した電気自動車、などがパワーを争っていたが、最終的にガソリンを使った内燃発動機に軍配が上がった。その瞬間的な発進力、エンジン動力の強さ、持続力、そして補給の便利さ、において多の動力より遥かに優っていたからである。フォード社の創業者ヘンリー・フォード(Henry Ford)は、自動車戦国時代の勝ち残りの一人だ。自動車作りで生き残ったものの、もう一つの障害は生産価格を如何に引き下げるかにかかっていた。

大量生産で大量販売を
ある朝、オフィスの窓から工場を見下ろしていたヘンリーは、通勤してくる工員たちを眺め「今に我が社の工員達の全員が、自分の車で通勤してくるようにして見せる」と呟いた。これはヘンリーの右腕と言われた副社長チャールス・ソレンソン(Charles Sorensen)が自伝で書いている逸話だが、その言葉が社員を慈しんで洩らした言葉か、あるいは自動車販売で他社を出し抜く作戦を考えていたのか不明である。動機はいずれにせよ、ヘンリーは自動車製造を従来の高価な『手作り』車から、ベルト・コンヴェイヤー式の量産態勢に切り替え、製造価格の引き下
げを図った。 こうして1908年、フォード最初の量産車T型モデルが発進したのである。この生産計画は当たりに当たって1920年代の半ばまでに10,000,000台を販売し尽くした。この成功を他社が黙って見守ってはいなかった。高級車を含めて、全ての自動車製造会社が量産態勢に切り替えたことは言うまでもない。かくして、少なくともアメリカでは、自動車は確実に一般大衆の生活の一部に定着していった。第二次大戦が始まる当時には、シボレー(Chevrolet)、ビュイック(Buick)、クライスラー(Chrysler)、キャデラック(Cadillac)、オールズモビール(Oldsmobile)、ポンティアック(Pontiac)、スチュードベーカー(Studebaker)、ラムブラー(Rambler)、ハドソン(Hudson)、ジープ(Jeep)、リンカーン(Lincoln)、マーキュリー(Mercury)、ダッジ(Dodge)、プリムス(Plymouth)、などが争って販路を拡大していった。その後に続く合併劇については省略する。第二次大戦中は、乗用車の生産を中断して軍需車両の生産に切り替えたが、戦争終了後、再び乗用車の生産に立ち戻った。

より大きく、より強く
大戦直後の数年は、さすがのアメリカも供給不足に悩まされていたが、1950年前後には順調に生産態勢を整え需要に応えられるようになった。『一家に一台』の目標は疾うに達成していたので、次は『一家に二台』を目標とし、それを達成するのにはさほどの年月はかからなかった。販路を更に拡大する成り行きとして『成年一人に一台』が掲げられ、車種の多様性が提案された。つまり、高級車、経済車、大型車、中型車、小型車、スポーティ車、といった具合に階級、年令、職業、好みによって選択できる各種各様の車種を取り揃えたのである。 その一環として1950年代の半ば、クライスラーは巨額を投入し、人々が将来どんな車を要求しているか調査した。その結果「道路の混雑、駐車場のスペース、などを考慮すると将来の車は『小型』であるべき」という答えが出た。クライスラーは鬼の首でも取ったように、翌年のモデルとして小型車の生産に重点をおき大々的に宣伝した。だが作戦は見事に裏切られ、その年の販売は惨憺たるものであった。リサーチ会社は納得いかず、もう一度調査をし直し、人々が「、、、小型車が将来の理想」としたのは偽りのない本心からで、『他の』人々の車は小さい方がよく『自分の』車は例外だったのである。このリサーチの『読み違え』は業界に広まり、各社競って車の大型化に突入した。1950年から1960年代の半ばまでに、中型車は大型車のサイズに、大型車は更に巨大化し、宣伝でも「大型になった」ことをセリング・ポイントとして強調された。車自体が大きくなれば、より強力なエンジン馬力が要求されるのは当然の成り行きで、これも併行したセリング・ポイントとして声高に宣伝された。

『買い替え』のそろばん勘定
自動車製造会社のもう一つの『市場拡大』戦略に『買い替え』があった。「車は古くなるにつれて故障が起こったり傷み、それにつれて修理代が嵩むようになる。だから、本当に経費を節約する気があるなら、2年毎に新車に買い替えた方が経済的」といった手の戦略である。これも可成り成果が上がったようだ。 アメリカ車が『より大きく、より強く』育っている一方で、本心から『小型車』を望む消費者が「やむをえず国産でない」フォルクスワーゲンなどの外車に目を向けていた。1960年代の半ばあたりのアメリカ市場では、トヨタ、日産などの日本の車はまだ性能の点で認められていなかった。アメリカ人の大半は、『より大きく派手で、より馬力の強い』車を乗り回し、この世の春を謳歌していた。
我が社の方針は弱肉強食。」(from NEWYORKER)

オイル・ショック
だが突然、1973年10月15日、アラブの石油生産国(OPEC)がアメリカに対して石油の供給を中止した。アメリカが、彼らの敵国であるイスラエルを軍事的に援助しているから、というのが彼らの言い分であった。ガソリン・スタンドに車が行列して給油を待つという光景がアメリカ中で見られたが、しばしば、売り切れとなりドライバー達の間で給油を争い傷害事件まで起こるという事態まで招いた。ここで「地球の石油埋蔵量は無限」という神話は脆くも崩れた。奇しくも、それまで軽視されていた輸入小型車が脚光を浴びることになる。数年後には、品質向上が一般に認識されたトヨタ、日産が、フォルクスワーゲンの首位の座を奪い取った。 消費者ばかりか自動車製造会社も、改めて小型車や経済車を見直すことになるが『より大きく、より強く』という思想がしみ込んでいるビッグ3は巨大過ぎ、一朝一夕で方向を転換するのは至難の業務だった。そんな巨人たちが急造した小型経済車は惨憺たる失敗作に終った。(続く)

2 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

この時期は、アメリカの成功物語りですね。
よき時代と言えばよき時代でした。でも、一連のアメリカの『産業革命』が後年、自らの墓穴を掘るとは思いもよらかったのでしょう。

JA Circle さんのコメント...

昨晩、「経済危機の禍根:その2 自動車産業、その台頭」拝読致しました。平易に書かれた米国の自動車史をを楽しみました。有難う御座います。北村