2012年9月24日月曜日

諏訪根自子のヴァイオリン



諏訪根自子(すわねじこ)の名は戦中戦後にかけて青春を過ごした方々だったら、美貌の天才ヴァイオリニストとして記憶に残っているはずだ。1960年代の初頭に公演から退き、以後噂も聞かれなくなったまま去る3月、92才で永眠した。
その諏訪根自子が使っていたヴァイオリンが最近のニューヨーク・タイムズで話題になっている。その記事をご紹介する前に、彼女の略歴を眺めてみよう。編集:高橋 経

ドラマに満ちた諏訪根自子の生涯
根自子の父、諏訪順次郎(すわじゅんじろう)は庄内地方の資産家の息子、母の(たき)は声楽を志していたが、親が決めて順次郎と結婚し、後に東京へ出て大正9年(1920年)1月23日、根自子が生まれた。

根自子は満3才になった時、ヴァイオリンを始め小野アンナ・バブノヴァ(Anna Bubnova-Ono)に師事し、続いて日系ロシア人アレクサンドル・モギレフスキィ(Alexander Mogilevsky)にも習った。1927年、有島生馬(ありしまいくま)の紹介で一条公爵家の園遊会で演奏。1929年、小野門下生の発表会での演奏で聴衆から注目された。
1930年秋、来日したエフレム・ジンバリスト(Efrem Zimbalist)に面接し、メンデルスゾーンの協奏曲を演奏し、感銘を与え、翌年の朝日新聞に『天才少女』と賞賛した記事が発表された。
1932年、初のリサイタルを開き『神童』と賛嘆された。
1936年、ベルギーの駐日大使バッソンビエールが国王に推薦し、更に外務省が後援してベルギーに留学。
1938年パリに移り、原智恵子(はらちえこ)の紹介でボリス・カメンスキー(Boris Kamensky)に師事。
翌1939年、ドイツのポーランド侵入で第二次世界大戦が勃発、根自子はパリに留まっていたが1942年、田中路子(たなかみちこ)を頼ってドイツに移り、クナッパーツ・ブッシュが指揮するベルリン交響楽団と共演。その際、ナチのジョセフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)からストラディヴァリウス(Stradivarius)のヴァイオリンを寄贈(後述)された。

左から:アンドレ・プレヴィン、ボブ・ホープ、
諏訪根自子、レス・ブラウン:1951年
その後、根自子はベルリンとパリを往復していたが、パリ滞在中、ノルマンディー上陸作戦が敢行され、脱出してベルリン経由でスイスに移り、そこで演奏会を開いた。連合軍がベルリンを落した後、アメリカ軍に拘束され、アメリカを経由して日本へ帰ってきた。

戦後は、井口基成(いぐちもとなり)、安川加寿子(やすかわかずこ)らと華々しくコンサートを開いた。この時期が諏訪根自子の絶頂期であった
1960年以後、第一線から退くと共に消息が途絶え、伝説的な天才ヴァオリニストという名を残したまま、去る3月92才で他界した。


謎のヴァイオリン
カルラ・シャプロウ(Carla Shapreau)
2012年9月21日付け、New York Times の記事から抜粋
ヴァイオリンの授受:左がゲッベルス、右が諏訪根自子、中央が大島駐独大使

1942年2月22日、ナチの宣撫省局長、ジョセフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は、笑みをたたえ、優雅な口調で挨拶をしてから、彼が所有していたストラディヴァリウスのヴァイオリンを贈り物として、当時23才の諏訪根自子に手渡した。その場に居合わせたのは、ナチの高官と駐独日本大使、大島浩(おおしまひろし)であった。ゲッベルスは翌日の日記に「日本大使も、ヴァイオリニストも、私の贈り物に感動していたようだ」と記している。諏訪根自子も、「私はこの最高級のヴァイオリンの名を汚さない音楽家になるよう、一心に研鑽を続けます」と公に宣誓し新聞記事にもなった。

以上のエピソードは一般の記憶から遠ざかってしまったが、様々な記録は今日でも確実に残っている。だが、あの名器の本当の出所については、未だに謎に包まれている。
(この名器に関する詳細は省略)
つまり、ゲッベルスがどこからあの名器を入手したか、大量殺戮の収容所へ送り込んだユダヤ人から押収した財産の一部だったのではないか、という噂が未だに消えないままでいる。そしてその噂が、ゲッベルス以後の持ち主である諏訪根自子に付きまとって日本へ持ち帰られた。

その忌まわしい噂が広がり始めた1946年(戦後1年、昭和21年)、法律家タナカ・キビヒコは新聞紙上で、「もしその名器が新聞記事で取り沙汰されている通り、ナチの高官が誰かの所有物を没収した逸物だったとしたら、諏訪根自子は人道上の良心に従い、涙をのんで名器への執着を振り払って、本来の持ち主へ返還する決心をすべきだ」と勧告していた。

ユダヤ人から押収したヴァイオリンを点検収納:1942年
諏訪根自子は『その噂』に反論し「ゲッベルスが、シレシア(Silesia)の商人から買い取ったものだ」と主張していた。シレシアとは、ドイツ、ポーランド、チェッコの国境線の変動にゆさぶられた地域である。根自子の遺族は『名器』についてあまり関わりたくなかったようだ。

あの当時、ナチがユダヤ人から横領、没収、あるいは略奪した美術品、楽器、などの事実は数限りなく報告されている。今日、その真実を追求する徹底的な調査がカリフォルニア大学ヨーロッパ調査部門で行われている。私(筆者)は、失われた楽器の追跡を担当し、記録のファイルを一点ずつ、製作者名、所有者名、地域毎に綿密に焦点を当てて調べている。
(その調査例が何件もあるが省略)
ポーランドのロッヅ(Lodz)にあった居住地からだけでも、20万人のユダヤ人が強制収容所へ送られガス室で殺された。ナチの法令下で、そのユダヤ人達は、所有物と共に楽器は全て放棄させられた。1944年当時に生存していた一人は、「ロッヅの街路には何も残っておらず、苦しい生活の連続だった。その苦痛に飢えと寒さが加わって、音楽どころではなかった。ベートーベン、モツアルト、ショパン、シュウマン、、、いずれも、ひっそりとして聞こえなくなった」と書き残している。

デリケートに傷ついた音律を潜めたヴァイオリンの数々が、職人の手で修理され、楽器商や他の商人の倉庫に納められた。そうした楽器の履歴は、真偽の鑑定書、価格算定、売買書類、写真、その他の文書と共に整理されている。だが今日まで、毎年売りに出された楽器の芸術的な価値査定は、しばしば不十分だったり無印だったりしている。売買の成立には習慣的にプライバシーが厳しく尊重される傾向にあり、特にドイツ帝国によって不法に取得された楽器の履歴を追跡することは、挫折に終わる場合が多い。所有者の名前はプライバシーの名目でしばしば抹殺されているか、『あるプロ音楽家の所蔵から』といった記載にすり替えられていたりする。

ナチの統制下で失われた美術品を調査している美術史家ソフィイ・リリィ(Sophie Lillie)の言によると、「調査は、その筋が問題の美術品を追跡して押収する場合のように一点に絞る訳にはいかないので、どこで行われるか判らない売買中の稀代のヴァイオリンを追跡するために接近調査することは不可能に近い。ヴァイオリン取引の世界では、異常な事情は同じ状況下にある場合は殆どなく、従って商取引が事件にされたことは未だかつてない。だからといって、問題を黙認することは、売り手買い手、双方ともに経済的な面でも道徳的な面でも責任が生ずるであろう」と警告している。

私は何年もの間、諏訪根自子のヴァイオリンについての詳細を聞き出そうと、本人や家族にお願いしてきたが、ずっと敬遠され続けてきた。そしてやっと2007年、彼女の甥(根自子のヴァイオリンを相続し、匿名を希望)から丁重なお便りを頂いた。

伯母(根自子)は、ヴァイオリンの一件を含めて、あの当時の出来事を話したがりませんでした。ご存知でしょうが、今、伯母は88才ですが、日本を離れてヨーロッパへ渡った時は、たった16才でした。お許しください、これ以上申し上げることはございません。」

(以下、名器のこと、ゲッベルスの周辺、既に記述した諏訪根自子の経歴は省略)


諏訪根自子の往年の録音からドヴォルザックの『インデリアン、ラメント』YouTubeから

1 件のコメント:

JA Circle さんのコメント...

名器と名ヴァイオリニスト、何か因縁話のようですね。