2012年11月13日火曜日

日本人、ドナルド・キーン



マーチン・ファクラー(Martin Fackler)
2012年11月2日付け、ニューヨーク・タイムズの記事から抜粋

(東京発) 当年90才のドナルド・キーン(Dr. Donald Keen)博士、やや前かがみで小柄な容姿、そのつつましく謙虚な応対から、至って繊細で脆い印象を受ける限り、この人が敗戦で崩壊した日本に立ち直る勇気を与えてくれた人物だったとはとても考えられない。だがそうした外観をもつ生粋のニューヨーク子で、コロンビア大学の文学部教授から引退したその人は、今や、日本を終生の国として選んだのである。

昨年の地震津波、続く福島第一原発の放射能汚染などの災害以来、多くの外人居住者達が日本から逃れていったにも拘らず、キーン博士逆に意図的に日本へ戻ってきた。のみならず、博士は日本の市民権を獲得し、傷ついた日本に援助の手を差し伸べる意志を表示したのである。

こうしたキーン博士の姿勢は、日本で既に文化的知的層の間で尊敬の念を一身に集めていた人柄と相まって、喝采をもって新聞に取り上げられ、テレビのドキュメンタリーで放映され、博物館にまで掲示された。

太平洋戦争の末期、アメリカ海軍の下士官で、日本兵捕虜の訊問にたずさわっていたキーンは、合衆国で日本研究(founder of Japanese studies)を創設した。こうした業績が認められ、外人としては稀な賞を天皇から授与され、又その貢献により日本で最高の文学者たちと知遇を得ることになった。既に特筆に値いする経歴を持つもの静かで遠慮がちな笑みを浮かべる人が日本に帰化した事実は意外ともいえる絶頂期に立った。

キーン博士は現役中、しばしば日米間を往復した。日本に帰化するという行為は、日本に永年住んでいる多くの西欧人たちの殆どが避けてきたことだが、キーン博士にとっては帰化することによって日本人から「受け入れられた」ことの証左に他ならない。

帰化申請についてキーン博士は、「当初、私の申請に対して、大勢の日本人から『お前は大和民族ではない』という憤慨の手紙が殺到するのではないかと予想していました。私の予想に反して、皆が歓迎してくれました。多くの日本人は私の日本への愛着を察してくれたようです」と語っていた。

彼の日本への愛着は、昨年の東北大震災によって精神的に受けた打撃で沈んでいた日本人が自信を取り戻す勇気を与えてくれたようだ。その自信は、長期に亘る経済的な不安感にも救いになるであろう。

ホテルの喫茶店で私がキーン博士と対談している最中、テーブルの脇を通った人が、博士を認めて振り返って微笑んだ。この些細な一事でも、この年老いた学者が本国のアメリカより日本で名声を勝ち取っていたことが判る。インターネットやテレビ情報以前の古い時代の産物キーン博士は絶妙な話術をもち、生涯を日本に捧げて習得した彼の話術は聞く人を魅了しないではいられない。その話題は、博士が最初に日本に接した1945年、沖縄戦の最中のことであった。

キーン博士の顕著な人柄は、日本という単一民族の中にあって、謙虚な『ヨソ者』のまま、暖かく溶け込んでいったことであろう。今年、博士が日本国籍を獲得した時、日本の各大新聞は、彼が仮名(か漢字か不明、未確認)で書かれた『キヌ・ドナルド』なる手書きのポスターを掲げている写真付きで報道した。またこの目出たい話題を記念するため、新潟のある製菓会社は、キーン博物館を建て、ニューヨークに在るキーン博士の書斎を複製し展示の一部にする、と発表した。

博士は、将来いつか一般招待の講義をする考えがあるそうだ。過去の例から考えると、出席希望者が定員を超えるのが常だったから、入場は抽選で、ということになるであろう。

キーン博士は独特の控え目に、「私は今まで逢った日本人は、皆、感謝してくれました、、、(移民申請を扱う)司法省の係官以外はね」とユーモラスに漏らした。(国籍取得の手続きに必要な複雑な書類の提出、などの説明は省略)

ドナルド・キーンが日本へ憧憬の念を抱いたのは1940年(昭和15年)に遡る。コロンビア大学の学生で18才のニューヨーカーだったキーンは、或る日タイムズ・スクエア近くの書店で、日本では千年前の古典『源氏物語』の英訳本に遭遇した。その宮廷内の恋『物語』に魅了されて没頭し、既に国際的に緊迫していたヨーロッパやアジアの紛争から受ける恐怖から逃避することができた。

後年、キーン博士源氏物語から日本の繊細な美意識と、浮き草のように悲しい人生を甘受する情感が、彼の一生を虜(とりこ)にしてしまった。

アメリカが第二次世界大戦に参戦し、キーンは海軍に入隊し、日本語の教育を受け、情報部門の通訳となった。日本兵捕虜を訊問することを通じて、彼は日本人の心情を汲み取れるようになった。キーンが訊問した『捕虜第一号』は戦後、手紙を送ってくれたそうだ。

キーンは、その語学力を活用し、級友数名と共にアメリカでは初めての『日本を学術的な面から研究する(academic studies of Japan)』先駆者となった。アメリカ人の間では、キーンは日本文学について2巻に及ぶ翻訳と編纂を完成し、何世代もの大学生に紹介したことで知られている。彼によると、当時までアメリカ人の間で、日本文学は事実上殆ど知られていなかったそうだ。「私が思うに、私が欧米に日本文学を紹介するのに、それを大学の文学正典の一部とさせるという手段をとったのがよかったのでしょう」と言うキーン博士は、日本文学と歴史に関する書籍を25册も著述し発表してきた。

戦後在日中、キーン博士は時期が良かったこともあり、ちょうどフィクション小説の黄金時代に当たり、貴重な知識を吸収することができた。彼が知遇を得た小説家の中には
三島由紀夫、大江健三郎がいた。年配の文学者、谷崎潤一郎は気難しく、訪問者を避けていたが、キーン博士は例外扱いで招待された。キーン博士に言わせると、「私が日本の文化と真剣な態度で取り組んでいたからでしょう。私は日本語で文学を語る変わり者のガイジンだったのです」とのことだ。

小説家、辻たかし(?)は、キーンは日本人に日本文学の重要さと自信を蘇らせてくれました」と語る。は更に、キーン博士が日本人から受け入れられたのは、大方の西欧人学究徒は日本を研究する態度が冷静で客観的であるのに反し、彼の日本観察は暖かみがあり精神的に理解しようとしていたからで、そうした姿勢はむしろ日本人小説家以上の熱心さがあった、と説明した。そしては、同じことが、逆に超国粋主義者だった三島由紀夫の場合、欧米の文学傾向に影響されていたのと通じるものがあると言える。究極的に、「キーンさん」は情感的に立派な日本人なのだ、と結んだ。

さて、キーン博士、最後章の経歴に当たり、彼が日本人になったことで、彼は再び日本人に自信を取り戻させた。昨年コロンビア大学教授の職責から引退したキーン博士は、彼を日本人の一人として認めてくれたことへの返礼をしたい、と考えている。

「これ(89才で日本の国籍をとった)以後、アメリカ人であることを中止するわけにはいきません。でも私は色々な意味で日本人になりました。見掛けだけでなく、自然にです」とは、ドナルド・キーンの率直な気持ちである。
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編集註:ラフカジオ・ハーン(Lafcadio Hearn: 1850~1904) が日本文化を欧米に紹介し、日本人女性と結婚し、日本の国籍をとり小泉八雲と名乗ったのは一世紀以上前のことであった。

2012年11月1日木曜日

紙製の本は消え去るか?



今は読書週間の真っ最中で、今日11月1日は今年から新たに制定された『古典の日』である。日本なら『源氏物語』を、欧米だったら差し当たりシェークスピアをしっかり読もう、という企みであるようだ。

そうした結構な企画と呼応しているわけでもなかろうが、近年、電子書籍(electronic book: eBook)を含む電子出版が徐々に、そして確実に普及し始めている。当然、古典文学も含まれている。

つい先日、TIME誌(タイム)と一、二を争っている週刊誌の大手、Newsweek誌(ニューズウイーク)が、印刷雑誌を廃止して、全面的に電子版に切り替える、と発表した。
この傾向がさらに続くと、永年親しんできた『紙製の本』は消滅してしまうのではないか、と危惧する声が聞かれる。それに答える予測は後回しにして、電子書籍の歴史を振り返ってみよう。

◆ グーテンベルグ計画:1971年
グーテンベルグ

グーテンベルグ(Gutenberg: 1398~Feb. 3, 1468 )というと、1440年頃、活字(組み替えられるタイプ印字という意味)を実用化し、それまで僧侶が手書きで写経してきた聖書(Holy Bible)の多量な複製を可能にした人物である。そのことで彼は印刷業界の恩人とあがめられてきた。ちなみに、グーテンベルグが活字応用を実現させた年から遡ること300年も前に、ある中国人が陶製の活字を開発ている。また1403年には、ある韓国人が、グーテンベルグ活字の原型とも言える金属鋳造の活字製法を発明している。


鉛の活字
にも拘らずグーテンベルグの名前の方が印刷の歴史で重要視されているのは、何千とある漢字の数に比べ、たった26文字の組み合わせで文章を構成できるローマ字の方が、複製を迅速かつ能率的に印刷できたからであろう。この違いは、後世のワープロでも東洋語の電子化を遅らせた原因にもなったようだ。


グーテンベルグの「聖書」
いずれにせよ、1971年、マイケル・ハート(Michael Hart)の発起で、古典文書の保存を目的とし、それを電子化して収録し始めたのがこのーテンベルグ計画(Project Gutenberg)であった。電子化された古文書の中には、アメリカの『独立宣言(The Declaration of Independence)』が含まれていた。
現在同プロジェクトから、4万冊に及ぶ古典の電子書籍が無料で提供されている。

◆ インターネットの普及:1990年代初頭

1990年代以前には、インターネットはごく一部の専門家だけのものであったし、ISP (Internet Service Provider: インターネットを繋げる仲介業者)はコンピュサーブ社(CompuServe)がほぼ独占し、加入料金も高価だった。後に電話会社その他が続々とISPとして加わり、加入料金が下がって手頃になるにつれ、一般が続々と加入し始めた。インターネットの身近かな利点は、月々の基本料金は別として無料で文書交信ができる電子メール(eMail)である。これが加入者を急速に増やす原動力になり、それに加えて、あらゆる『情報』を容易に即刻に検索できるという利点が爆発的な普及につながった。それに派生して簡便な『買い物サイト』、友人の輪を広げる『社交サイト』、不特定多数への『発言の場ブロッグ』、個人、企業を問わぬ『自己主張、宣伝のホームページ』などなど、その利点は枚挙にいとまがない。

アマゾン・ドット・コム(Amazon.com)が書籍の通販を始めたのもこの頃であり、今ではインターネットでは最大の『売り手』に成長した。

◆ PDF (Portable Document Format)の登場:1993年

PDFは、ソフトでは業界最大のアドービ社(Adobe)が開発した『文書共有化』の形式である。それまでは、システムが違うコンピューターの間では文書の互換性がないという不都合な面があった。それを解決したのがPDFで、文書をPDFに変換すれば、受け取る相手のシステムが何であろうと文書、写真や映像を開くことができるようになった。これが、いわば『電子書籍』の基本的な構想となったのである。

◆ CD本の誕生:1990年代初期

CD (Compact Disc)は、既にLPレコードカセット・テープを駆逐し、音楽の媒体を占有していた。それまで『音』だけを収録していたCDが、文書や画像も収録できるようになった。これに従って、この以後に製造されたコンピューターにはCDドライブが内蔵されるようになり、CDの内容をスクリーン上で見ることができる。さらに音声も聞かれる『百科事典』や『雑誌』『カタログ』が発売され、また無料の宣伝材料にも応用されている。

◆ 電子書籍の静かな本格化:1999年


「開けゴマ!」ならぬ開けイーブック: Open eBook: は一般に知られないまま、古典文学や教科書の分野を開発し始めていた。まだ商業的な存在ではなかったが、、、。

◆ ソニー(Sony)とグーグル(Google Books) が電子書籍の商業化:2004年

ソニーのイーリーダー
先ずソニーがイーインク (eInk)と名付けた読書用の端末器を発売した。ほぼ同時に、グーグル(Google) が端末器ではなく、インターネットで電子書籍の販売を始めた。

◆ ソニー、二代目の端末器: イーリーダー(eReader):2006年

新しい二代目は、前記の eInk テクノロジーを活用し、今は亡きボーダー・ブックショップ (Border’s Bookshop)と提携し同社を通じて電子書籍の販売を始めた。

◆ アマゾンの挑戦:2007年

アマゾンのキンドル
紙製の書籍販売では独占的な販路を持っていたアマゾンが、キンドル(Kindle) と名付けた端末器で読めるeBook 販売を開始したのは、むしろ当然の成り行きだった。それまでに築き上げた広大な流通市場を利用し、アマゾンの電子書籍はたちまちトップの座に就いてしまった。

◆ スマートフォンの登場:2007年

アイフォーン
時を同じくしてアップル社 (Apple Co.) アイフォーン(iPhone)を発表した。このスマートフォンは基本的には携帯電話であるが、その多彩な機能は驚異的に豊富で、画面は鮮明、カメラやビデオまで組み込まれている。これが魅力で若者たちの間で爆発的に売れたことは周知の通りである。これはアマゾンの電子書籍と競合するどころか協調し、アマゾンから発売されている書籍をダウンロードして読める仕掛けになっている。これで、電子書籍の販路が大幅に拡大された。

◆ アップルの追い打ち、アイパッド(iPad)の登場:2010年

アイパッド・ミニ(手前)とアイパッド
スマートフォンは従来の携帯電話よりは大きいが、本を読むのにはもう少し大きければ読み易いのだが、といういう消費者の要望に応えたのがこの『タブレット(tablet)』型で、アイパッド(iPad)と呼ばれる形体の端末器である。これがスマートフォンと並行して、同様に爆発的に売れた。

消費者というものは勝手なもので、「大きければよい」と願った舌の根も乾かぬ内に「もう少し小さいと目立たなくて持ち運びに便利」なことを要求し、今年その小型アイパッド・ミニ(iPad Mini)が発表された。これは、もしかしたら消費者の要求に応えたというより、アップル社が販路を拡張するための消費者市場プラニングから生まれたのではないか、という観測もある。いずれにしても、『柳の下』にドジョウがいたようで、これも爆発的な人気を呼んでいる。

◆ 紙製の本は消え去るか?

いいことづくめの『電子書籍』の成長ぶりを観察してみると、紙製の本の将来は悲観的でしかないように思える。私は色々な理由で『電子書籍』を愛用し、友人にそれとなく推薦しているが、私の世代の老人ばかりでなく、若い世代の人々でも『電子』に抵抗を示し、『紙製の本』に執着している方がまだ大勢存在することは確かだ。

その理由は様々だが、一つには、『電子書籍』は端末器を介してのみ存在する、という不安定な面が否めない。一方『紙製の本』は『器具なし』でも手に取って直ぐ読めるという安心感がある。紙の「手触り」や「装丁」への執着も捨てられない魅力だ。

第二に、電子書籍』は貸し借りができないこと。『書籍』を収録している『器具』には個人的な情報が無数に入っているため、他人に貸与するわけにいかない。また収納された『書籍』を他器にコピーすることはできない。

というわけで『紙製の本』は次第に少なくなるであろうが、消滅することはない、というのが私見である。編集: 高橋 経

付記:毎年大赤字を計上している郵政省は、インターネットの普及による犠牲者(社)の最たるものではあるまいか。

2012年10月29日月曜日

カボチャの季節


またハロウィーンの季節が到来した。ハローウィンについて一言書こうと思ったら、たまたま朝日の天声人語子が書いていたので、下記、代弁して頂くことにした。
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天声人語 2012年10月29日(月)
いつの間にか、という表現がぴったりする。ハロウィーンの日本への浸透ぶりだ。この季節に商店街を歩くと、あちこちからお化けカボチャが笑いかけてくる。アメリカでは、子どもたちが仮装をして近所を回る楽しい行事だ▼(中略)▼もとは悪霊を追いはらう行事でもある。米国では「コミュニティーのお祭り」の色合いが濃い。日本でも、地域など、子どもを育む共同体で楽しめば、つながりも深まろう。それが子を守る力にもなっていく。悪鬼のつけ入る隙をみんなのスクラムで封じたいものだ。
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ハロウィーンの主役はなんといってもカボチャパンプキン灯(Jack-o-Lantern)だ。私も永年、年中行事の一つとしてパンプキンに目鼻や口を彫り、中にロウーソクを点して楽しんでいたが、レイ・ヴィラフェイン(Ray Villafane)のパンプキン彫刻には兜を脱いだ。何はともあれご紹介する。編集:高橋 経

レイ・ヴィラフェイン(Ray Villafane)の創作カボチャ
これは序の口、誰にでもできる

カボチャの実はゴムのように伸び縮みはしないのだが、、、。

茎(くき)も巧みに利用されている

カボチャの原型から思いついたに違いない

茎を巧みに利用したもう一つの例

カボチャ彫刻の極地。誰もこれがカボチャからとは思えない

2012年10月19日金曜日

チョコレートよ、なくならないで!

志知 均 (しち ひとし)
2012年10月

シャンソン『枯葉』で唱う「The falling leaves drift by the window, the autumn leaves of red and gold」の季節になった。ハロウィーンも近い。私達の住む地域に子供のいる若い家族が最近増えたので、今年は「Trick or treat(トリック・オア・トリット)」に来る子供が多いかもしれない。ハロウィーンで子供に渡すキャンデーはチョコレート・キャンデーが多い。いつも余分に用意するので、残った分は私が朝食後のコーヒーと一緒に食べることになる。

子供のメルヘンの世界にチョコレートは欠かせない。たとえば 『ウイリィ・ウォンカとチョコレート工場(Willy Wonka & the Chocolate Factory)』 の話(ロールド・ダール:Roald Dahl の子供向けの話 (1964) がミュージカル(1971) になって有名になった)。





貧しい家庭に育った少年チャーリー・バケット( Charlie Bucket) が買ったチョコレートの包紙に大当たりの金賞が入っていた。チョコレートを買った世界中の多数の子供の中で金賞をあてたのは Charlie を含めてたったの5人。この幸運な子供たちは Willy Wonkaのチョコレート工場へ招待される。色々なものがチョコレートでできた工場内を案内された子供たちは、やってはいけないという約束を破って、こっそりつまみ食いをしたり飲んだりしてしまう。ただ一人 Charlie は約束を破らなかった。Mr. Willie Wonka は Charlie が正直なのを認め自分の跡継ぎに選ぶ。メデタシ、メデタシ。この話はチョコレート工場だから子供たちが楽しむが、これがチーズ工場だったら臭くてメルヘンにならない。

しかしチョコレートは本来大人の嗜好品であった。古代マヤ人にとって神聖な食べものであったチョコレート(ココア)は1500年代にヨーロッパへもたらされ、王侯貴族や富裕階級にココア飲料として供された。フランスの Louis XV皇帝や、稀代の好色家カサノバ(Casanova)はココアに催淫効果(Aphrodisiac)があるということで愛用した。チョコレートはこうした背景や、恋人への高価な贈り物として喜ばれることからロマンチックな愛情表現と結びついた。ただし催淫効果についてはいまではあまり信用されていない。


現在、世界で年間に消費されるチョコレートはコストにして900億ドルに達する。チョコレートを合成するカオの木(Theobroma cacao)は赤道の南北18度の地帯にしか生育しないので栽培はきわめて限られている。カカオのサヤ(pod)から集めたタネ(seed)を醗酵させ乾燥してできるココアからチョコレートを作る。マヤ人がチョコレートを神聖な食べ物とよんだのはそれに薬理作用があることを知ったからであろう。最近判ってきた効果としては、ココアに含まれるフラボノイド(flavonoid)の抗酸化性、血圧や血中LDLコレステロールを下げる効果、抗炎症活性、ココアの成分であるセロトニン(serotonin)による抗欝作用、同じくココア成分のセオブロミン(theobromine)の抗菌作用による虫歯予防などがある。このようにチョコレートは嗜好品としてだけでなく薬用としても用途があるので今後の需要が高まることはまちがいない。


焙じたカカオのタネ
ところが…マスコミがあまり騒がないので一般に知られていないが、チョコレートの原料を生むカカオの木が、絶滅とまではいかないまでも極度の脅威にさらされている。その原因は、地球全体の気象変化、病菌、害虫の被害、カカオ栽培農民の貧困などである。世界のココアの70%がアフリカ西部の諸国(アイヴォリーコースト、ガナ、ナイジェリア、カメルーンなど)で生産される。残りはブラジル東南アジアの諸国(インドネシア、フィリピン、ベトナムなど)で作られる。カカオは中米のエクアドルメキシコ原産であるがポルトガル人、スペイン人によってアフリカやアジアへもたらされた。

カカオの木は高温多湿を好むが近年の気象変化のため雨量不足で育ちが悪く、逆に開花期に集中豪雨があると花が散らされてしまう。病虫害としては、カカオのサヤにとりついてタネをできなくする菌の害(frosty pod rot)や、サヤに穴をあける(ガ:pod borer)の被害がある。後進国、特にアフリカでカカオ栽培に従事する者は貧農が多く、肥料や殺虫剤などを十分買う余裕がない。また労働の割りに収入が少ないのでカカオ栽培を止める者も増えている。現状を放置すれば2020年までにカカオ生産量は現在の半分になるといわれる。ではどうすればよいか?栽培技術の改良、灌漑の完備、病虫害に対する抵抗性を高めるための品種改良などやることはいろいろある。しかし、カカオ栽培は主食作物の栽培ではないので生産国の政府の支持が期待できない。Bill & Melinda Gates財団などがアフリカのカカオ栽培農業の改善に財政援助を始めていると聞く。こうした援助活動が増えることが切望される。

敗戦後、まだ日本人が食糧難で飢えていた頃、闇市で買ったアメリカ製のチョコレートの美味かったこと…庶民には高価だったが。そんな時代を思い返して気がついた。輸出振興で景気がよくなり、所得倍増政策で国民の生活レベルが上がってくるにつれ、食生活が贅沢になりチョコレートは簡単に入手できるようになった。チョコレートが買えるかどうかは生活水準の指標のひとつになっていたのだ。現在の中国のように中産階級が増えている国ではチョコレートが買える人の数が増えているに違いない。他方、貧しくて内戦やテロ行為が続いている国ではチョコレートを買う余裕のある人口は少ないことだろう。


時代は違うが、いみじくも啄木が詩に書いている。「…冷たるココアのひと匙を啜りて、そのうすにがき舌触りにわれは知るテロリストのかなしきかなしき心を」。

誰もが甘いココアの味を楽しめる世界にしたいものだ。

2012年10月12日金曜日

マララの回復を!


暴力で幼い少女の願いを抹殺することはできない。
マララ・ユスフザイ(Malala Yousafzai; 14)の夢は必ず実現する。
ひたすら、回復を祈る。

2012年10月8日月曜日

村上春樹の英語版15册



著者の思想を視覚化するデザイン

DesignTaxi.com のサイトから抜粋


村上春樹
出版社ヴィンテッジ (Vintage)村上春樹の作品を英文に翻訳して出版する際、その表紙をイスラエル生まれでロンドンに住むグラフィック・デザイナー、ノマ・バー (Noma Bar)を指名した。

完成した15册の表紙は下掲の通り。ご覧のように一部の例外を除き、赤と黒の2色、それと円形、という一貫したイメージで構成された。赤と円が『日の丸』を連想させるが、その辺に関する作者の意図は明らかではない。

ヴィンテッジのブログによると、村上が書く現実あるいは幻想で隠されたり失ったものに対する感覚を表紙のデザインで表現させた、とのことだ。デザイナー、バーのグラフィックによる視覚表現の陰に、その第二義的なイメージと幻覚を潜めさせた。複製はシルクスクリーンの技法を利用し、個性的な柔らかさを出している。

デザイナーのバークリエイティブ・レヴュー誌(Creative Review)に、「表紙のデザインを注意深く観察していただくと、ムラカミが作品で書いている裏に潜む新しい意味が、パズルのように層に重なっている私のグラフィックの奥から発見できるでしょう」と、その自負を語っていた。

(左から)『海辺のカフカ(2002)』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)』、
『アフター・ダーク(2004)』

(左から)『アンダーグラウンド(1997)』、『スプトニクの恋人(1999)』、『地震のあとで(1999)』


(左から)『象の消滅(1985)』、『羊をめぐる冒険(1982)』、『ねぢまき鳥のクロニクル(1992-3)』

(左から)『What I Talk About When I Talk About Running (原題不明)』、『ノルウェイの森(2010)』、
『バースデー、ストーリーズ(2002)』


(左から)『国境の南、太陽の西(1992)』、『ダンス、ダンス、ダンス(1988)』、『めくら柳と眠る女(1983)』

2012年10月2日火曜日

世界の素敵な喫茶店(Coffee Shops)駆け巡り

クレア・コットレル(Claire Cottrell)
2012年10月1日
T.S. エリオット(T.S. Eliot)は、20世紀中に最も傑出した英国の詩人に違いないと思う。彼は「私の人生はコーヒーのサジ加減で測れる」と見事な表現をしている。私は諸手を挙げて共感する。アメリカはニューヨークからサンフランシスコまで、ヨーロッパはスカンジナビアからスペインまで、そして極東は日本、コーヒー党は夜明けからコーヒーなしではその一日が始まらない。熟練した手で、コーヒーの豊かな、艶やかな、カフェインをたっぷり包んだ豆を焙じて、古風な機械ですりつぶし、香り高い琥珀の液体が絞り出される。
何はともあれ、仮想の世界旅行に出かけて、あの国、この土地で香りを漂わせ、ムードを醸し出している素敵な喫茶店の数々を駆け巡り、そこから漂ってくるコーヒーの芳香に思いを馳せて愉しむのも一興であろう。

AIA Coffee & Restaurant: ポルト(Porto)、ポルトガル
Zmianatematu: ポーランド
D’espresso: ニューヨーク、アメリカ
Coutume Café: パリ、フランス
Loveat Jaffa: テル・アヴィヴ(Tel Aviv)、イスラエル
Handsome Coffee: ロサンゼルス、カリフォルニア州
Coffee Collective:コペンハーゲン、デンマーク
Koppi Kaffe & Roasteri: ヘルシングボーグ(Helsingborg)、スエーデン
茅場コ-ヒー:東京
Little Nap Coffee Stand: 東京
Coava Brew Bar:ポートランド、オレゴン州
Four Barrel Coffee: サンフランシスコ
Blue Bottle Coffee: サンフランシスコ
Blue Bottle Coffee:ブルックリン、ニューヨーク
La Colombe Torrefaction: ソーホー(Soho)、ニューヨーク
Callas Cafe: ブダペスト、ハンガリー
LAMILL Coffee Boutique: シルバーレィク、カリフォルニア州
Confiserie Bachmann: バセル(Basel)、スイス
Starbucks Coffee Shop: 福岡市太宰府
Balzac’s Coffee Roastery: トロント(Toronto)、カナダ

編集から:以上、いずれかの店の所在地をお望みでしたらお問い合わせください。全部の用意はありませんが、できる限りお知らせいたします。