マーチン・ファクラー(Martin Fackler)
2012年11月2日付け、ニューヨーク・タイムズの記事から抜粋
(東京発) 当年90才のドナルド・キーン(Dr. Donald Keen)博士、やや前かがみで小柄な容姿、そのつつましく謙虚な応対から、至って繊細で脆い印象を受ける限り、この人が敗戦で崩壊した日本に立ち直る勇気を与えてくれた人物だったとはとても考えられない。だがそうした外観をもつ生粋のニューヨーク子で、コロンビア大学の文学部教授から引退したその人は、今や、日本を終生の国として選んだのである。
昨年の地震津波、続く福島第一原発の放射能汚染などの災害以来、多くの外人居住者達が日本から逃れていったにも拘らず、キーン博士は逆に意図的に日本へ戻ってきた。のみならず、博士は日本の市民権を獲得し、傷ついた日本に援助の手を差し伸べる意志を表示したのである。
こうしたキーン博士の姿勢は、日本で既に文化的知的層の間で尊敬の念を一身に集めていた人柄と相まって、喝采をもって新聞に取り上げられ、テレビのドキュメンタリーで放映され、博物館にまで掲示された。
太平洋戦争の末期、アメリカ海軍の下士官で、日本兵捕虜の訊問にたずさわっていたキーンは、合衆国で日本研究(founder of Japanese studies)を創設した。こうした業績が認められ、外人としては稀な賞を天皇から授与され、又その貢献により日本で最高の文学者たちと知遇を得ることになった。既に特筆に値いする経歴を持つもの静かで遠慮がちな笑みを浮かべる人が日本に帰化した事実は意外ともいえる絶頂期に立った。
キーン博士は現役中、しばしば日米間を往復した。日本に帰化するという行為は、日本に永年住んでいる多くの西欧人たちの殆どが避けてきたことだが、キーン博士にとっては帰化することによって日本人から「受け入れられた」ことの証左に他ならない。
帰化申請についてキーン博士は、「当初、私の申請に対して、大勢の日本人から『お前は大和民族ではない』という憤慨の手紙が殺到するのではないかと予想していました。私の予想に反して、皆が歓迎してくれました。多くの日本人は私の日本への愛着を察してくれたようです」と語っていた。
彼の日本への愛着は、昨年の東北大震災によって精神的に受けた打撃で沈んでいた日本人が自信を取り戻す勇気を与えてくれたようだ。その自信は、長期に亘る経済的な不安感にも救いになるであろう。
ホテルの喫茶店で私がキーン博士と対談している最中、テーブルの脇を通った人が、博士を認めて振り返って微笑んだ。この些細な一事でも、この年老いた学者が本国のアメリカより日本で名声を勝ち取っていたことが判る。インターネットやテレビ情報以前の古い時代の産物キーン博士は絶妙な話術をもち、生涯を日本に捧げて習得した彼の話術は聞く人を魅了しないではいられない。その話題は、博士が最初に日本に接した1945年、沖縄戦の最中のことであった。
キーン博士の顕著な人柄は、日本という単一民族の中にあって、謙虚な『ヨソ者』のまま、暖かく溶け込んでいったことであろう。今年、博士が日本国籍を獲得した時、日本の各大新聞は、彼が仮名(か漢字か不明、未確認)で書かれた『キヌ・ドナルド』なる手書きのポスターを掲げている写真付きで報道した。またこの目出たい話題を記念するため、新潟のある製菓会社は、キーン博物館を建て、ニューヨークに在るキーン博士の書斎を複製し展示の一部にする、と発表した。
博士は、将来いつか一般招待の講義をする考えがあるそうだ。過去の例から考えると、出席希望者が定員を超えるのが常だったから、入場は抽選で、ということになるであろう。
キーン博士は独特の控え目に、「私は今まで逢った日本人は、皆、感謝してくれました、、、(移民申請を扱う)司法省の係官以外はね」とユーモラスに漏らした。(国籍取得の手続きに必要な複雑な書類の提出、などの説明は省略)
ドナルド・キーンが日本へ憧憬の念を抱いたのは1940年(昭和15年)に遡る。コロンビア大学の学生で18才のニューヨーカーだったキーンは、或る日タイムズ・スクエア近くの書店で、日本では千年前の古典『源氏物語』の英訳本に遭遇した。その宮廷内の恋『物語』に魅了されて没頭し、既に国際的に緊迫していたヨーロッパやアジアの紛争から受ける恐怖から逃避することができた。
後年、キーン博士は『源氏物語』から日本の繊細な美意識と、浮き草のように悲しい人生を甘受する情感が、彼の一生を虜(とりこ)にしてしまった。
アメリカが第二次世界大戦に参戦し、キーンは海軍に入隊し、日本語の教育を受け、情報部門の通訳となった。日本兵捕虜を訊問することを通じて、彼は日本人の心情を汲み取れるようになった。キーンが訊問した『捕虜第一号』は戦後、手紙を送ってくれたそうだ。
キーンは、その語学力を活用し、級友数名と共にアメリカでは初めての『日本を学術的な面から研究する(academic studies of Japan)』先駆者となった。アメリカ人の間では、キーンは日本文学について2巻に及ぶ翻訳と編纂を完成し、何世代もの大学生に紹介したことで知られている。彼によると、当時までアメリカ人の間で、日本文学は事実上殆ど知られていなかったそうだ。「私が思うに、私が欧米に日本文学を紹介するのに、それを大学の文学正典の一部とさせるという手段をとったのがよかったのでしょう」と言うキーン博士は、日本文学と歴史に関する書籍を25册も著述し発表してきた。
戦後在日中、キーン博士は時期が良かったこともあり、ちょうどフィクション小説の黄金時代に当たり、貴重な知識を吸収することができた。彼が知遇を得た小説家の中には
三島由紀夫、大江健三郎がいた。年配の文学者、谷崎潤一郎は気難しく、訪問者を避けていたが、キーン博士は例外扱いで招待された。キーン博士に言わせると、「私が日本の文化と真剣な態度で取り組んでいたからでしょう。私は日本語で文学を語る変わり者のガイジンだったのです」とのことだ。
小説家、辻たかし(?)は、「キーンは日本人に日本文学の重要さと自信を蘇らせてくれました」と語る。辻は更に、キーン博士が日本人から受け入れられたのは、大方の西欧人学究徒は日本を研究する態度が冷静で客観的であるのに反し、彼の日本観察は暖かみがあり精神的に理解しようとしていたからで、そうした姿勢はむしろ日本人小説家以上の熱心さがあった、と説明した。そして辻は、同じことが、逆に超国粋主義者だった三島由紀夫の場合、欧米の文学傾向に影響されていたのと通じるものがあると言える。究極的に、「キーンさん」は情感的に立派な日本人なのだ、と結んだ。
さて、キーン博士、最後章の経歴に当たり、彼が日本人になったことで、彼は再び日本人に自信を取り戻させた。昨年コロンビア大学教授の職責から引退したキーン博士は、彼を日本人の一人として認めてくれたことへの返礼をしたい、と考えている。
「これ(89才で日本の国籍をとった)以後、アメリカ人であることを中止するわけにはいきません。でも私は色々な意味で日本人になりました。見掛けだけでなく、自然にです」とは、ドナルド・キーンの率直な気持ちである。
-----------------------------------------------------------------------------------------
編集註:ラフカジオ・ハーン(Lafcadio Hearn: 1850~1904) が日本文化を欧米に紹介し、日本人女性と結婚し、日本の国籍をとり小泉八雲と名乗ったのは一世紀以上前のことであった。
1 件のコメント:
キーンさん、お元気で。
コメントを投稿