2010年8月11日水曜日

広島:怒りの文学へ

大江 健三郎(おおえ けんざぶろう)
2010年8月5日付け、NYTに掲載、全文

東京発: 沖縄、普天間のアメリカ海兵隊飛行場基地は、東アジア最大の米基地の一つで、人口が密集した市街の中心地に設置されている。日米の政府はその危険性を15年前から認知しながら移動させる気配は全く見当たらない。(右は、筆者大江健三郎)

2009年に就任した鳩山由起夫首相は、沖縄市民から嫌悪されていた基地を移動すると公約しながら、その要望を棚上げにしたまま期待に反して実行できないまま失脚した。その後継となった管直人首相は、日米安全保証条約を尊重すると表明し-----それと米軍が日本に駐在するという基地問題とは直接の関わりはなく、その立場は時の風向きに依存しているようだ。


最近の報道によると、政府閣僚は、日本で核兵器を製造、所有し、または使用して限定した条件でアメリカを援護することは賢明ではないとし、核兵器を運搬する際、日本の領土を通過させることによって、いわゆる核兵器傘下の事情を向上させるという非核兵器3原則案に関する提案を含んだ方針書を管首相に提出する事になっているそうだ。


私がその記事を先週読んだ時、限りない怒りを覚えた。(その言葉が私にとって重要性を持つ理由については後段で説明する。)今年、同様な激怒に襲われた他のニュースがあった。それは過去何十年もの間に亘る沖縄問題に関連し『非核兵器3原則』の3番目である核兵器を日本へ持ち込む(通過も含め)ことを禁止するという原則に違反する密約が日米間で交わされていた、という記事を読んだ時である。


原爆が落とされてから今年で65周年目を迎え、年中行事である広島平和記念祭で、イギリス、フランス、アメリカの代表達が初めて出席することになった。これは民間の行事でありながら政府の指導者たちが演説をするが、同時に、被爆者や生存者たちが近親の犠牲者を追悼するという個人的に重要な意義もある。近代日本で過去200年来、全ての公的な行事の内で、平和の祭典は道徳上、最も真摯(しんし)執り行われるべき行事である。

私はここで道徳上、真摯にという表現を、オバマ大統領が2009年4月、プラハで行った演説から意図的に引用して使った。大統領は原子力を核兵器として応用するとしたら、アメリカはその行動に道徳上の責任があると言っていた。大統領の呼びかけには、特定の強大な国家が無制限に核兵器を所有してしまう以前に、効果的な核武装禁止行動を起さない限り、核兵器の生産を促すという新たな危機の発生が感じられる。


オバマ大統領のプラハでの演説は、2007年のウオール・ストリート・ジャーナル紙(the Wall Street Journal)に掲載された評論核兵器のない世界(A World Free of Nuclear Weapons)』ジョージ・シャルツ(George Shultz)、ウイリアム・ペリー(William Perry)、ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)、サム・ナン(Sam Nunn)等の発言を反映していた。彼らは「多数の国々が他国からの脅威に対して、(核兵器製造を)不能にするよう適切な対策を講じ続けねばならない。しかしながら、その脅威を妨げるために核兵器に依存するという考えは著しく危険であり、むしろ効果がない」としていた。


非核武装の意識は、アメリカやヨーロッパで広がり始めているようだ。事実、日米仏の代表たちが平和の祭典に出席したことは、非核武装世界へ僅かながら第一歩を踏み出した象徴として映るであろう。しかしながら、現在の状況を展望する限り、日本(政府)は一向に国内の米軍基地を移動させる具体案を持っていないようだ。それどころか、我々は、アメリカの保護に依存する代償として、核兵器が日本へ持ち込まれたり通過するのを許容黙認する可能性が強い。


国連の安全保障委員会の会議で、退陣前の鳩山首相は、オバマがプラハ演説で言及した「日本も道義上の責任がある、、、」に対して「唯一の被爆国であるから」と応えていた。

しかし、こうした非核武装案への美辞麗句に対して、一体どのような行動が計画され用意されているのだろうか?もし管首相オバマ大統領の演説について考える余裕があったとしたなら、何と解釈しただろうか?もし彼が祭典で演説するとしたら、核兵器が日本へ持ち込まれたり通過するのを容認する閣僚の一人として、適切な発言をする言葉の用意は持ち合わせていないのではなかろうか。


でももし彼が発言するとして、オバマの側である諸外国の代表たちは、どう受け止めるであろうか?そして平和会場に占める被爆者たちがどのように感じるであろうか?世界で唯一の被爆国国民として、核兵器傘下の保護の元で生きることが道義上の責任であり、自由を獲得するために傘下にあることを放棄したがるのは、責任を放棄するという反抗的な行為だと非難されたら、被爆者たちは激怒するのではなかろうか?


私も考えさせられる-----今や前首相が当初バラ色の公約をした普天間基地を沖縄の辺野古村へ移動させる筈だった計画が有耶無耶に消滅してしまったことを-----2千日以上も座り込んで抗議していた村の老人男女達が、度々変更される政府の方針をどう受け止めたであろうか。


65年前、昭和20年8月、(私の母の)友人の一人が広島で被災した後行方不明とされていたが、現地の病院に収容されていたのが判り、四国の家にいた母は、ささやかな援護の品々をまとめて見舞いに出掛けた。母はその旅から帰宅してから、その友人の模様を話してくれた。


それによると母の友人は、原爆が投下される直前に、真夏の焼けるような太陽を避けるためレンガ塀の陰で凉を求めていた。その日陰から彼女(友人)は遊んでいた二人の子供たちを眺めていた。その時原爆が炸裂し、彼女の目の前でその子供たちが蒸発してしまった。彼女は「私はただただ怒りがこみ上げて、、、」と母に語りながら涙ぐんでいた、ということだ。


私はその話を聞いた時点で、その実態を明確に把握していなかったにも拘らず、その恐怖に満ちた話を聞きながら(彼女の「怒りが、、、」という言葉と共に、すっかり私の胸にずっしりと重く心の底に根を下ろしてしまった)、作家になって書き残さねばならぬ、と痛感したのであった。その思いがずっと脳裏に去来していながら、その後今日までの50数年『核時代』と呼ばれる世界に生き、私は一向に、原爆を体験した人々を叙述する筈の『一大文学』を書き上げることができなかった。今こそ私は、その文学を書き上げることだけが、私自身に与えられた使命であると考えている。


イドワルド・ワディ・サイード(アラビア読み:Edward Wadie Said*下段の註を参照)の最新の書熟年の文体について(On Late Style:2006年版)』の中で、彼は数々の芸術家たち(作曲家、音楽家、詩人、小説家)の例を挙げ、彼らの作品が年令を重ねる毎に、奇妙な形で緊迫感が集約され、破滅の縁の上を彷徨い、そして彼らが晩年になるとその緊迫感を利用して、その年代なりに、彼らの世界、彼らの社会、彼ら自身を表現するようになった、と分析している。

先週の或る日、私が核兵器傘下のイデオロギーが復活していると知った時、人気(ひとけ)のない深夜、私は書斎で独り坐り、自分自身を見直していた、、、私が見たものは年老いた、無力な人間、激しい怒りの重みの下で身動きもせず、まるでそうしていること自体が(何もしないでいた間が)文学の形式(文体)そのものでもあるかのように、ただ奇妙に集約された緊迫の気配を感じていた。


そして、その老いた日本人の男が、多分そこに独りで坐って黙々と抗議していること自体が、彼の晩年の作品になることであろう。
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イドワルド・ワディ・サイード(アラビア読み:Edward Wadie Said:1935年11月1日生まれ〜2003年9月25日死亡):エルサレム生まれ、パレスチナ/アメリカ文学の理論家で、パレスチナの人権擁護活動家でもあった。


[お断り:以上は、筆者の日本語で書いた評論が英語に翻訳され、それを再び日本語に訳し直したものです。当然原文と違う表現が随所にあると思いますが、筆者の意図は充分に掴むことはできたと確信しております。編集責任:高橋 経]

2010年8月9日月曜日

追悼:パトリシア・ニールの浮沈

アル・ジーン・ハーメッツ(Al Jean Harmetz)
2010年8月9日付け、NYTの記事から

ケンタッキー州の一炭坑町で生まれ育ったパトリシア・ニール(Patricia Neal)は、長じてハリウッドの映画やブロードウエィの舞台に立つ女優としてアカデミー賞やトニー賞を受賞し、輝かしい名声を挙げた。そうした華やかな栄光の影で、その私生活は悲劇的な浮沈に揺さぶられていた。そのパトリシアが、昨日曜日(8月8日)、マサチューセッツ州エドガータウン(Edgartown, Mass.)、マーサのブドウ園(Martha’s Vineyard)内の自宅で84才の生涯を終えた。直接の死因は肺ガンだった。


編集から:パトリシア・ニールの生涯に関する長文の叙述は省略し、映画ファンの記憶に残るアルバムのハイライトだけご紹介する。いずれも共同通信(Mark Humphrey/Associated Press)提供によるスティル写真。


1949年に公開された『摩天楼(The Fountainhead)』で、当時48才、絶頂期にあったゲィリー・クーパー(Gary Cooper)の相手役として23才のパトリシア・ニールが抜擢された。二人は撮影中から激しい恋に陥り、その関係は3年も続いたが、結果としてクーパーが妻子の元に戻り、終わりを告げた。

同映画の一場面。パトリシアの役柄は数々の候補者を退けた激しい競り合いの結果だった。その割には、興行的に成功しなかった。(編集註:日本ではアメリカ公開の直後に封切られ、大評判だった。なお、原作者のアイン・ランド(Ayn Rand)の本はベストセラーで、60年後の今でも市場に出回っている。)

パトリシア・ニールリチャード・トッド(Richard Todd)共演の軽卒な心(The Hasty Heart)』『摩天楼』と同年、1949年公開。

1961年のヒット、オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn:中央)、ジョージ・ペパード(George Peppard:)共演のティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's)』で助演したパトリシア

1964年、ポール・ニューマン(Paul Newman)ハド(Hud)』に出演し、粗野なカーボーイの男所帯で気丈な家政婦を演じ、アカデミー賞、トニー賞を受賞したパトリシアだったが、スクリーンでは観客の人気をさらったニューマンの魅力の陰に抑えられていた。その1年後、卒中を3度も経験し、3週間にわたり昏睡状態に陥った。

回復後、記憶力が弱くなり台詞を覚えるのが難しくなったが、1968年、フランク・ギルロイ(Frank Gilroy)作の舞台劇バラが主題だった(The Subject Was Roses)』の映画版で帰り咲いた。その演技が買われてアカデミー賞の最優秀女優賞の候補となった。写真は夫ロナルド・ダール(Ronald Dahl)授賞式に入場する所。

1999年の映画クッキーの幸運(Cookie's Fortune)』に出演したパトリシア

2005年ハリウッド通り舗装された有名人の星(a star on the Hollywood Walk of Fame)』賞牌を受けた。

2008年、晩年のパトリシア・ニールは、脳障害の児童や成年を救う基金集めに、その余生を捧げ尽くした。

編集からお願い:上記、日本語に翻訳した映画の題名が、日本で公開された題名と違っていた場合はお知らせください。

2010年8月6日金曜日

敗戦、貧困、ララ物資:下

はじめに
前2回の挿話では、普連土学園の大津光男財務理事から、敗戦後日本人の大半が体験した貧困生活と海外の救護団体の救援活動をお伝えいたしました。
それに引き続き、ハーバート・ニコルソンの善意『ヤギのおじさん』に焦点を当てて完結といたします。戦中派はもちろんですが、特に戦後に生まれた方々に知っていただきたい『風化させられない』日本人の悲惨な日々の一端と、それを救ってくれた善意の逸話です。編集;高橋経記;イラストも


大津 光男(おおつ みつお)


6. 山羊のおじさん

太平洋戦争中、アメリカ在住の日系人を助けるためにAFSCを辞め『トラックを運転する宣教師』として強制収容所に荷物を運んでいたハーバート・ニコルソン(Harbert Nicholson)は、ブレスレン奉仕委員会(Brethren Service Committee)が設定した同教会の後援によるヘイファー救援プロジェクト(Heifers for Relief Project Organization, sponsored by the Church of the Brethren)に加わり、その責任者になった。当然その仕事はボランティアであり無給であった。

ヘイファーの救援プロジェクトは、未産の雌牛を送るのが常だったが、日本には山羊を送ることにした。ヘイファーの名は、ララの連名には現れていない。しかし、山羊を送ることによってハーバート・ニコルソンはララの活動の記録では、いつも「やぎのおじさん」として紹介されている。ハーバート・ニコルソンは、長男サムエル(Samuel)の作ったスライドを用いてプロジェクトを紹介しながら米国内で募金し、200頭の仔山羊を購入することができた。


昭和22年(1947)10月サンフランシスコを出港したハーバートサムエル・ニコルソン親子、クエーカーのテッド・ロバーツ(Ted Roberts)、ポール・マッククラッケン(Paul McCracken)等の一行は、貧弱な小型輸送船サイモン・ベンソン号(Simon Benson)の後甲板に設けられた山羊小屋と共に、太平洋の荒波を超え沖縄に着いた。那覇港には沈没船が多く、町も沖縄戦で破壊されていた。沖縄戦では昭和20年(1945)7月2日の米軍沖縄作戦終了宣言までに多くの犠牲者を出していた。集団自決に追い詰められたり、スパイ容疑をかけられて日本軍に殺されたりする島民もあり、12万人余が戦火に斃れ、壊滅的な打撃を受けていた。

終戦の後2年を経ても惨状はそのまま残っていた。そうした状態の中で、早速山羊小屋が作られ、当地のララの責任者エベレット・トンプソン(Everett Thompson)により、軍司令部の司令官クレイグ大佐(Colonel Craig)を紹介された一行は、滞在施設として将校宿舎があてがわれた。


ハーバート・ニコルソンは沖縄滞在中、島民に日本語で説教してもよいかどうかをクレイグ大佐に尋ねたところ、クエーカーに改宗させない限り説教しても差し支えない、という許可を得た。

その結果、山羊をつれて、軍政府農場、名護の病院、ハンセン病療養施設沖縄愛楽園、少年刑務所、その他多くの集落を訪ねる度に、罪もない沖縄の人々を苦しめることになった自分たちアメリカ人を赦して欲しいと謝罪し、アメリカのもたらした戦争による悲惨さを詫びたのだった。

筆者は本稿を書くに当り、息子のサムエル・ニコルソンに何度か電話で確かめた。彼の話では、沖縄訪問で6週間、宣教師のいない地域を回りながら、説教することよりも、戦争の贖罪として山羊を携え、沖縄の人々に詫びていた父ハーバート・ニコルソンの姿を是非記録に留めておいて欲しい、とのことであった。(左の写真はニコルソン一家:前列右から、ハーバート、妻マデリン、長女ヴァージニア、後列右はサムエル、左は次男のドナルド)

ハーバート・ニコルソンの沖縄への初航海は、軍の輸送船に乗ってアメリカへ戻ることによって終った。沖縄からアメリカに戻ったニコルソンは、再び山羊を買い求めた。今度は念願の日本本土への旅であった。
 

昭和23年(1948)5月、250頭の山羊をフライング・スカッド号(Flying Scud)に積み込んで出帆した。横浜入港を控えた晩、ハーバート・ニコルソンは、山羊の産室で逆子の仔山羊が産まれる報せを受け、直ちにその場に出向き、母山羊から足を引きずり出した。母山羊は、婦人クリスチャン禁酒団体(Women’s Christian Temperance Union)から贈られた山羊だったのでテンペランス(禁酒)と名付けられていた。ニコルソンは、新たに生まれた仔山羊の名前を、自分の長女バージニアの日本名と同じキヨコ(清子)と名づけた。こうして、横浜港に着くまでには、船内で合計15頭の仔山羊が生まれ、総数は265頭に増えていた。
 

横浜に着くと、検疫所で歓迎会が開催された。この歓迎会でハーバート・ニコルソンは、4頭の仔山羊を育てた日系人サトミ・ヤスイの話をした。すると、その場に居合わせた農林次官からこの話をNHKのラジオで全国放送をしてみてはどうか、と勧められたのである。ところが、ニコルソンがNHKに出かけて問い合わせてみると、ラジオに子供の時間帯を設けるには6ヶ月を要するとのことだった。当時、まだテレビはなかった。


一方、ハーバート・ニコルソンのその話を少し脚色し、子供の雑誌記事とすることも決まった。けれども、最終的には、物語は時間や場所、人物も脚色されて二世の少女サトミ・ヤスイは、父親が太平洋戦争で戦死した『ハリーという少年に変えられた。そして、下記、小学校五年生の教科書に載せられることになった。こうしてハーバート・ニコルソンやぎのおじさんとして日本全国に知られるようになった。そして、カメラマンのディック・クラーク(Dick Clark)、腹話術師のアル・ブロワー(Al Blower)らと共に、山羊を連れながら全国を行脚
することになった。

普連土学園を訪問したのはもちろんのこと、ある時は、御殿場にあった秩父宮殿下の別荘で、また、ある時には皇太子明仁(現天皇)の家庭教師をしていたエリザベス・グレイ・バイニング(Elizabeth Gray Vining:左のイラスト)の招きにより学習院を訪問して話をした。さらに、江ノ島の少年院その他全国を訪問して、多くの人たちを前に、沖縄での話と同様に、戦争でアメリカが犯した罪を許して欲しいと詫び、且つ祈った。この姿勢は生涯変わらなかった。

7. 1頭のやぎ

昭和28年1953に学校図書で発刊された小学校五年生の『国語・上』教科書には、次の文が載せられた。

ニコルソンさんは、日本で教会の牧師をしていました。

動物がたいへんすきで、やぎをかっていました。近所に病人があったり、ちちのたりないあかちゃんがあったりすると、ニコルソンさんはさっそくやぎのちちをしぼって「どうぞ、これを飲ませてください」と言って、持っていってあげるのでした。ですから近所の人たちはみんな、ニコルソンさんのことを「やぎのおじさん」とよんでいました。

ところが、昭和16年に、太平洋戦争がおこりました。ニコルソンさんは、すきな日本にいることができなくなってしまいました。しかたなしに、30年も住みなれた日本の土地と、たくさんの日本人の友だちに別れをつげてアメリカへ帰っていきました。日本をひきあげたニコルソンさんは、カリフォルニア州のコロラド川のほとりで果樹園を経営して、メロンや夏みかんを作ることになりました。また、日本での生活を思いだして、ここでもやぎをかいました。

長かった戦争もやっと終わりました。久しい間、世界の人々が心から望んでいた平和が、ふたたびおとずれてきました。けれども、勝った国も、負けた国も、物資がたりなくなってしまいました。とりわけ、負けた国は損害も大きく、国民の苦しみようはたいへんなものでした。そこで、そういう国の人々を、1日も早く助けようという運動がおこり、アメリカにその本部ができました。少しでもゆとりのある人から衣類や食料を出してもらって、きのどくな外国の人々に送ってあげ、戦争ですさんだ心をなぐさめてあげようというのです。ニコルソンさんもその委員に選ばれました。


日本へは、学校給食の材料を送ろうとか、いろいろの相談が始まりました。

ニコルソンさんは「そうだ。日本にいる時、わたしはやぎのおじさんといわれたのだ。ひとつ、日本のこどもたちにやぎを送ってあげよう。おいしいちちをのんで、こどもたちはじょうぶに育つだろう」と考えました。


ニコルソンさんは、やぎを買うお金を集めるために、方々をまわって歩きました。お金を集めるだけのことならば、お金持ちから寄付してもらう方がたやすいことだったかもしれません。けれども、日本の少年少女へやぎを送ってあげるのには、同じぐらいのこどもから集めたお金で買いもとめた方が、どれほどとうとくもあり、またおたがいのまごころが通ずることだろうか。そう思ったニコルソンさんは、アメリカ各地をまわって「日本のこどもへやぎを送りましょう。こどもたちのこずかいの中から、ほんの少しでも出しあって、やぎを送ってあげましょう」と説いて歩きました。


その日も、ニコルソンさんは、コロラド川をずっと山おくへさかのぼって、あちこちの学校をたずねました。


「日本のこどもたちへやぎを送ってあげましょう」


ニコルソンさんは、ねっしんに説いてまわりました。そして、また、つぎの村へと急ぎました。ところが、いつのまにか、空はどんよりくもり、夕日もしずんでしまいました。めざすイーストン村まではまだ遠いのです。

「どこか、この辺でひとばんとめてくれる所はないかしら」
こう思って、1けんのみすぼらしい農家をたずねました。

その家には、おかあさんと3人のこどもがいました。上の子はハリーといって12才ですが、足が悪いとのことです。つぎがジョンで9才、いちばん下のかわいい女の子はメリーといって、5才でした。おとうさんはこんどの戦争で戦死してしまい、今ではおかあさんの手一つで、小さな果樹園を経営して、まずしいくらしをしているのでした。


それを聞いて、ニコルソンさんはすっかり同情してしまいました。カバンの中から、いろいろなおかしを出して、こどもたちに分けてあげました。すると、いちばん上のハリーが
「おじさんはイーストンへ行くの」とたずねました。ニコルソンさんは「うん、ちょっと、あそこの学校に用事があってね」

「では、おじさんは先生ですか。」「いや、学校の先生じゃない。わたしは長い間日本に住んでいたのだが、じつはこんど、、、」と、日本の友だちへやぎを送ること、やぎを買うお金を、アメリカのこどもたちから集めていること、そのために、イーストンの学校へ寄付のお願いにいくとちゅうであることなどを話しました。


3人のこどもたちは、じっとニコルソンさんの顔を見上げて聞いていましたが、やがて、ハリーは洋服の内ポケットから何かくちゃくちゃになった小さな紙包みをとりだしました。その中には、1ドルの銀貨がはいっていたのです。 「おじさん、これはたんじょう日のお祝いに、おかあさんからいただいたのです。本でも買おうと思って、たいせつにしまっておいたのですけれど、どうか、やぎを買うお金に使ってください。そして、日本の友だちに、1頭でも多く、やぎを送ってあげて下さい。」

それに続いて、ジョンもメリーも、だいじにしていた1ドルの銀貨をもちだしました。なみだが、ニコルソンさんのほおを伝わって流れました。


「いいんだよ。おじさんには、もう、たくさんのお金が集まっているんだから、そのお金は、さ、しまっておきなさい」


けれども、ハリーたちは「このお金もぜひ使ってください」と言って、どうしてもききいれません。ニコルソンさんはこまってしまって「それでは、この3ドルはありがたくいただくことにしよう」と、いったんそれを受け取りました。そうして、自分のさいふから2ドルのお金を出して、それに加えました。

「さあ、これで5ドルになるね。5ドルあれば、子やぎが1頭買える。だから、お母さんに買っていただいて、大きく育ててごらん。そうしたら、おじさんは、ほかのやぎといっしょにして、日本へ送ってあげるから」


ニコルソンさんはこう言って、ハリーたちに5ドルのお金をわたしました。その夜は、ハリーたちの家にとめてもらい、あくる朝早く、こどもたちとなごりをおしみながら、ニコルソンさんはイーストン村へたっていきました。おかあさんは、そのすぐあと、町へ出て、めすの子やぎを1頭買ってきました。3人のこどもは、なかよしの家族がひとりふえたので、たいへんな喜びようです。ジョンとメリーは、毎日、草をかってきて、食べさせました。

夏が去り、秋も過ぎて、やがて新しい春を迎えました。ある日のこと、ニコルソンさんのところへ1通の手紙が届きました。

[おじさんがわたしの家へとまられてから、もう1年以上にもなります。おじさんに買っていただいた1頭の子やぎも、いまではりっぱなおかあさんやぎになって、こどもを4頭もうみました。やぎのせわは、ぼくとジョンとメリーでしています。ぼくは毎日、やぎのちちを飲んでいます。おかげで、悪かった足がとてもじょうぶになって、このごろはひとりで歩けるようになりました。それから新聞で見ましたが、方々の学校から集めたお金で買ったやぎが、もう2回も日本へ送られたということですね。この次送る時には、ぜひ、ぼくたちのやぎも連れていってください。そして、日本のお友だちに、やぎのちちを少しでも多く飲ませてあげてください。お願いします。

ハリーより
ニコルソン様

ニコルソンさんはいく度もいく度もこの手紙を読んでいるうちに、むねいっぱいにこみあげてくる喜びを感じました。


ニコルソンさんはハリーたちに会いたくなりました。さっそく自動車をとばして、遠いハリーの家をたずねていきました。ニコルソンさんをむかえたハリーたちの喜びはどんなだったでしょう。自分たちがいっしょうけんめいに育てた親子のやぎを、ニコルソンさんの前にひっぱってきて見せました。ニコルソンさんは、ハリーたちに「こんど送る時には、きっときみたちのやぎも送ってあげよう」とやくそくして、ハリーたちをいっそう喜ばせました。


昭和24年の1月16日、250頭のやぎが、はるばる海をこえて横浜に着きました。にぎやかなやぎの伝達式が行われました。その時、同じ船に乗ってやぎを送ってきたニコルソンさんは、ハリーの手紙を声たかだかと読みあげました。

日本のお友だちのみなさん、どうかぼくに代わって、このやぎをりっぱに育ててください。アメリカのぼくたちと、日本のみなさんと、このやぎをとおして、ほんとうのなかよしになりましょう。これらのやぎは、日本中のこ児院へ分けられました。今ごろは、両親を失ったこどもたちにおいしいちちをあげたり、いい遊び相手となってかわいがられているでしょう。

8. 敗戦後の生活
 

広島に原子爆弾が投下される4日前の8月2日未明、水戸市にあった我が家は空爆で灰となった。その少し前、何度も防空壕にかけ込まざるを得なかった身重の亡母は、男の双子を早産したが死産に近く、実家に戻っていて被災を免れた。子供の命と引き替えに自分の命の助かった辛い苦しい思い出は、晩年はすっかり忘却の彼方にあった。彼女の頭にかすかに残っていたのは、亡父が傷痍軍人であったため敗戦後、水戸市で焼け残った弘道館の僅か6畳の小さな番屋に、県営住宅が建てられるまで幸運にも住むことのできた短い期間だけだった。

現在弘道館は史跡となり、この番屋はそのチケット売り場になって存在している。が、弘道館の歴史上そこに住んだのは我が家だけだった。しかし、記録は何も残されていない。私の学んだ小学校も戦災で焼失し、一時は弘道館を仮校舎としたこともあった。


そのような時期に、弘道館の番屋前の僅かな斜面を耕して野菜を植え、山羊を飼って糊口をしのいだ。それが、自分の年令さえ忘れた亡母の唯一の記憶だった。当時、水戸市民の多くもララ物資の恩恵に預かれたことは幸いだった。

私は、毎年終戦記念日の来る度に、戦争が終わった敗戦後の生活を思い出さずにはおられない。それは、ララによって助けられた日々のことである。


敗戦、貧困、ララ物資:中

はじめに
引き続き普連土学園の大津光男財務理事から、前回の挿話を受け、敗戦後日本人の大半が体験した貧困生活を、海外の救護団体によって救われた実情をお伝えします。『ララ物資』という言葉は、空腹を抱えていた当時に日本人にとって大きな福音の響きを持っていました。戦中派はもちろんですが、特に戦後に生まれた方々に知っていただきたい『風化させられない』日本人の悲惨な日々の一端です。編集;高橋経記
東京で罹災し雨露をしのぐ兄妹、、、両親の生死不明(昭和20年秋)

大津 光男
(おおつ みつお)


3. ララの構成


前記のような状況下、昭和21年(1946)6月、アメリカン海外事業運営篤志団(American Council of Voluntary Agents for Work Abroad)は、日本、朝鮮及び沖縄における救援事業を特に行うため、民間の特別委員会設置を決定した。同特別委員会をアジア救援公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia:LARA)と命名。その頭文字をとってララ(LARA)』と略称した。ララは民間組織とはいえ、アメリカ大統領の公認団体だった。

ララを構成していたのは:

  • アメリカン・フレンズ奉仕団、以下AFSCと略称(American Friends Service Committee)
  • 教会世界奉仕団、プロテスタント各派連合(Church World Service Committee)
  • カトリック戦時救済奉仕団(Catholic War Relief Service)
  • 救世軍(Salvation Army)
  • 男子キリスト教青年会、YMCA(Young Men’s Christian Association)
  • 女子キリスト教青年会、YWCA(Young Women’s Christian Association)
  • ブレズレン奉仕委員会(Brethren Service Committee)
  • ガール・スカウト(Girl Scouts)
  • ルーテル教会世界救済団(Lutheran World Relief)
  • ユニテリアン奉仕委員会(Unitarian Service Committee)
  • クリスチャン・サイエンス奉仕委員会(Christian Science Service Committee)
  • アメリカン労働総同盟(American Federation of Labor)
  • 産業別組合会議(Congregations of Industrial Organization)
だった。アメリカン労働総同盟産業別組合会議の2団体は、これら13団体中ではキリスト教の団体ではなかったが、その構成員または家族が、他の宗教団体のいずれかに属している場合が多かった。その所属宗教団体を通じてララ活動に貢献する意味で、参加13団体に加入したといった方が適切かもしれない。だから、労働団体は直接的ではなく、間接的にこの活動に奉仕し貢献したのでその功績も大きかった。

こうして、アメリカ合衆国、カナダ、中米、南米の教会関係者、そして日系人達から食糧、衣類、医薬品類、日用品、学用品、さらに牛や山羊まで集められて日本へ贈られてきた。けれども、実際にはララのこの活動は、何時、誰が、どうして考えつき、働き始めたかを断定することができないところに、この活動がキリスト教の隣人愛に根差した、大きくより大衆的な精神的活動でもあった、とされている特長がある。ララ記念誌の25頁に「各地各国によって、多少の遅速や経緯の相違はあったろうが、大体において、終戦の年、即ち昭和20年(1945)の冬から翌年にかけて、故国難民救済の活動が始まり、それらはいずれも皆ララに合流して、莫大な物資がララ第1船以来、続々と日本に送り届けられた」とある。


4. 救済活動の準備


アメリカでの日本救援の気運がいよいよ熱し、物資輸送の手はずも整った頃、被災国日本における受入体制準備のため、AFSCエスター・ローズ(Esther B. Rhoades右の写真:戦前から普連土女学校勤務、戦後は普連土学園中学、高等学校校長<1949~1955>、理事長<1955~1960>、現在の天皇明仁が皇太子だった頃、家庭教師となったエリザベス・グレィ・ヴァイニング夫人[Elizabeth Gray Vining]の後任として皇室家庭教師兼務)、カトリックのマイケル・マキロップ神父(Michal J. Mackillop)と前記のジョージ・アーネスト・バット博士が、物資発送に先駆けて、ララの代表として来日した。昭和21年(1946)6月のことだった。

ララ代表は、その後、事業の途中、ヘンリー・フェルセッカー(
Henry J. Felsecker)マキロップと交替し、バットは不幸にして59歳で、超多忙な活動により昭和27年(1952)3月急逝した。それは殉職というに等しく、夫人のエディス・バット(Edith E. Bott)がその後を継いだ。

その他、教会世界奉仕団カール・クリーテ(Carl D. Kriete)
AFSCトーマス・E・フォークス(Thomas E. Forlks)、ハワード・テーラー(Howard J. Taylor)も臨時的にララ代表として活躍した(『ララ記念誌』59~60頁、同記念誌にハロルド・フェルセッカー及びハロルド・テーラーとあるのは誤記) これらの代表の中、ローズ、フォーク、テーラーの3名がAFSC関係者であり、フィラデルフィアのクエーカーだった。ハワード・テーラーは、昭和42年(1967)9月~昭和44年(1969)7月、普連土学園で英語を教えたキャサリン・テーラー・水野(Kathryn Taylor Mizuno)の祖父である。

一方、日本国内で直接社会事業に深い関心と経験をもち、国際事情に精通していたことにより、ララの代表に協力して企画運営に当たったのが中央委員であった。中央委員会が帯びていた任務は、救援物資の割当及び配分に関する一般方針の企画、立案、実施などであった。一般社会情勢、施設の実情を常に考慮し、必要な要求に即応できる輸送に関する具体案の作成、輸送物資の受領、記録、倉庫収納、そして配分に関しては厚生省との協力を緊密にとった。その他、ララ代表を通じて在米寄贈団体に報告書を提出し、在米寄贈団体に日本の困窮の実情、受領者からの謝意などを伝え、更に救護促進を依頼する、などを実施した。


当該中央委員32名中、澤田節蔵(さわだ せつぞう)鮎澤巌(あゆざわ いわお)の2名が日本のクエーカーで、普連土学園と関係のあったことを銘記しておきたい。普連土学園が戦後学校法人となり、その初代理事長に就任したのが澤田節蔵、2代目がエスター・ローズ、3代目が鮎澤巌であったからである。このように普連土学園とララとはおそらく日本国内のどの学校よりもはるかに縁が深かった。

ミス・ローズヴァイニング夫人の母校、フィラデルフィアのジャーマンタウン・フレンズ・スクール(German-Town Friends School)では、生徒が昼食を抜いて、その昼食代で日本への援助を行っていたからでもある。

5. 救済活動の実施

さて、昭和21年(1946)6月21日、マイケル・マキロップエスター・ローズは、厚生省の葛西嘉資(かさい よしもと)社会局長室を訪れ、ララの基本構想を打ち明けた。その懇談の内容は、GHQガリオア援助(Government and Relief in Occupied Areas:GARIOA)とは別に、戦後の困窮時、民間人によって送られた救援物資を「公平」に、「効果的」に、「迅速」に配分するための協力を求めた。(註:『クエーカーの足跡』葛西嘉資の『想い出集』では6月22日になっている)翌7月8日、バット、マキロップ、ローズの3代表とGHQ厚生課長ネフ大佐、救資軍デビッドソン准将(Lieutenant General Phillip Buford Davidson, Jr.)ら6名、日本側は厚生省の葛西嘉資社会局長ら14名が厚生省に集まった。そして、日本側の適当な受入態勢・配分先・今後送付を希望する品名等につき、一般的な討議を開始した。

その結果、8月30日、GHQから「ララ救援物資受領並びに配分に関する連合国軍最高司令官総司令部の日本帝国政府に対する覚書」(昭和21年(1946)8月30日SCAPIN-1169)が交付された。この覚書に対して厚生大臣は、9月20日付で「計量に関する計画、保管に関する計画、配分に関する計画、警備に関する計画」を回答、心構えを明らかにした(『ララ記念誌』56~58頁)


同年11月30日午後5時、横浜港に到着したハワード・スタンドベリー号(Howard Standberry)に積み込まれた第一便の配分は、最も困窮していた乳児院、児童養護施設、結核、ハンセン氏病などの療養施設、老人ホーム、広島、長崎の被災者とされた。地域別では東京地区へ35%、大阪18%、横浜8%、名古屋8%、広島7.5%、京都6%、神戸6%、長崎2.5%、その他14%に配分された。(右は辛うじ走り出した東京の都電:昭和26年)

こうして、昭和21年(1946)12月から昭和27年(1952)3月まで足掛け7年間、当時の日本人の推定6分の1にあたる延べ1400万人が救援物資の恩恵を受けることになったのである。昭和22年(1947)にはララ物資が全県に配付されるようになり、秋ごろからララ物資の配付先が保育所、国立病院、療養所、学校給食にまで広がった。

ペニシリンなどの薬の配給は入院患者の死亡率を激減させたが、同年4月、茨城県下の小学校に入学していた私は、5年生の終わりまで、まるまるこの恩恵に浴していた。それは、学校給食時のコッペパンであったり、脱脂粉乳であったり、時には上着やズボンなどの衣類であったり、その他の日用雑貨品であったりした。

葛西嘉資は、厚生省の社会局長時代を回想して、ララについて「暖かい援助であった。ご存知のように社会施設に収容されている戦災孤児や一人ぼっちの老人などは、闇市で品物を調達する術が全くないので、もしあの時、ララの援助がなかったとしたら、と考えると、今でも肌に粟を生ずる思いである」と書いている(『一クエーカーの足跡』第2版166頁)

昭和21年9月、ララの事務所が東京駅に近い「三菱中十三号館」に開設されたが、エスター・ローズが担当した
AFSCララ物資配分場所となったのが、現在のフレンズ・センターだった。AFSCは、戦後日本支部の再設立に際して、拠点事務所を東京都港区のフレンズ・センターに設けたからである。ここは、幸運にも近隣住民の必死の消火活動により戦災を免れ、戦災で焼失した普連土学園の仮校舎として使われていたところだった。その3階が倉庫兼作業場とされた。

そして、例えば、衣類が送り先ごとに分類されて、サラリーマンには背広やネクタイなども提供された。その作業は夜を徹して行われたほど厳しい仕事であった。かつて、関東大震災の被災者に対して、基督友会奉仕団が行った救援活動のワーク・キャンプ、すなわち日本における実質的なワーク・キャンプの端緒となった深川公園においても、ララの物資が配給されていた。(左は東京新宿の焼け跡。道路を隔てて三越と伊勢丹のビルが焼け残った。昭和20年秋)

AFSCは、ララの救援活動を続ける一方、その拠点を活用しながら昭和24年、東京都新宿区戸山ハイツと茨城県水戸市備前町に、さらに、昭和26年には東京都世田谷区下馬にそれぞれネイバフッド・センターを作った。そして、その近郊に住む人たちが自分の持っている裁縫、珠算、書道等の特技を分かちあったり、子供たちの面倒を見たり、あるいは小さな図書館や勉強用の小部屋、安全な遊び場になるような便宜を与える場所を提供したのであった。  

水戸市備前町では幼稚園(現少友幼稚園)が再開され、世田谷区下馬には、昭和24年(1949)12月に、おともだち保育園を開いた。これが現在、普連土学園の奉仕活動対象施設でもある社会福祉法人日本フレンズ奉仕団所属の保育園の端緒となっている。


また、一方で
AFSCは、国際学生セミナー国際学生ワーク・キャンプフレンズ・センターで企画していた。だが、さらに、国内におけるワーク・キャンプの事務所を、世田谷ネイバフッド・センター戸山ハイツ、ネイバフッド・センター内に置いた。その初代の主事となったのがジャクソン・ベイリー(Jackson Bailey:アーラム大学Earlam College元教授・普連土学園元理事であった。普連土学園を何度か訪問、援助してくれた日系二世のクエーカー、ジョージ・オーエはフィラデルフィアで、AFSCの援助物資担当責任者となった(『ララ物資50年感謝の集い』資料集)

(『』につづく)

2010年8月5日木曜日

敗戦、貧困、ララ物資:上

はじめに
また今年も敗戦記念日の季節となりました。日本がアメリカと闘って惨敗したのが昭和20年8月15日、あれから65年の才月が過ぎ去り、今や少子高齢化が進み『無戦世代』が日本国民の大半を占める時代となり、戦争の悲惨さの実感が遠ざかり風化しようとしています。目下、戦争とは直接関係がない日本では経済不況が深刻な問題となっていますが、実際には、イラク、アフガニスタンでの闘いも経済危機と無関係ではありません。

今回は、普連土学園の大津光男財務理事から、敗戦後当時を物語る貴重な原稿を頂きました。『風化させられない』日本人の悲惨な日々を送っていた実態の一面は、戦中派はもちろん、特に戦後に生まれた方々に知っていただきたいのです。全文は3回連載でお送りいたします。編集;高橋経記(上は東京銀座一帯の焼け跡。下は焼け跡を片付ける東京都民。)

ララの活動と普連土学園
大津光男(おおつ みつお)


1. 敗戦

広島や長崎の悲劇は、毎年記憶に新しくされている。だが、真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争のもたらした日本国中至るところでの惨状も、現在では想像できないほど悲惨なものであった。

昭和20年(1945)8月15日天皇の玉音放送(ぎょくおんほうそう:註/この時点では昭和天皇裕仁は現人神と信じられていた。この4ヶ月半後に人間宣言をし、神格を放棄した。)で太平洋戦争が終結した以降、疲弊した農村の収穫は35年ぶりの大凶作で、平年作の3分の2に落ち込んだ。空爆や艦砲射撃により廃墟と化した主要都市では、工場の操業が停止し、円の切り替えでインフレが進んだ。多くの国民は乏しい金を工面して鈴なりの満員列車で必死に焼け残った農村に買出しに行ったり、闇市で品物を入手したりしていた。(右はドイツ大使館の瓦礫から見た議事堂)

都市部には、住居や衣服までを失い、食料は乏しくかつ貧しい、はたまた孤児にもなった被災者が多数いた。その半面、戦争の被害を受けずに儲けた悪徳商人も少数いた。そこに、海外から復員兵や引揚者が戻った。1日「2合1勺」の米の配給は滞りがちであった。(余談/闇の食品を入手することを潔しとしない清廉潔白な一部の人々が餓死したり、栄養失調に落ち入ったりした。気の毒だったが世間から余り同情されなかったようだ。)  

無条件降伏という無残な結果ではあったが、国民はいつ死に直面するかわからない戦争の恐怖や緊張感から解放された気分もあった。夜、しばしば停電があったものの灯火管制を受けずに電灯がつけられた。空襲警報の出ない夜が来た敗戦後は、食料が乏しくても子供にとっても大きな喜びだった。

戦後日本は、外国の軍隊による占領という厳しい状況下に置かれていた。日本政府を通じて占領政策を進めた連合国軍総司令部(General Headquarters、GHQ左の宮城外堀に面した第一生命ビルを占領 )による間接統治だった。

私は水戸市の進駐軍本部近くに住み、米国兵からチュウインガムをもらい子供心に嬉しく思った経験がある。ガムを噛んだのは生まれて初めてだった。街中をジープで走る進駐軍兵士からは、さほど厳しい威圧を感じることはなかった。 かかる困難に直面していた時期『りんごの歌(左の題名をクリックすると並木路子が唱うオリジナルが視聴できます)』が心をなごませる一面も出てきた。徐々に戦災から立ち直り、敗戦国日本の復興への道は開け始めていた。  

2. 戦勝国アメリカでの日本国民救済の機運

戦勝国アメリカ合衆国内では、終戦と共に日本国民の窮状を知ったアメリカやカナダの日系人、在留邦人の間に祖国救済の気運が高まっていった。盛岡出身で原敬(はら けい)の書生を務め、23歳で渡米した浅野七之助(あさの しちのすけ:註/日系ジャーナリストの草分け。日米新聞、日米時事などを発刊、彼の死後も後継者たちが発行し続けたが、残念ながら昨2009年9月10日を以て廃刊した)は、サンフランシスコで日本戦災難民救済を呼びかけた。

同志社大学総長であった湯浅八郎(ゆあさ はちろう:註/1909年7月11日生まれ、2005年9月11日死亡。湯浅の業績を讃えて建設された記念館が東京都三鷹市にある)は、辞職してアメリカにわたり開戦後も帰国せずニューヨークで日系人を励ましていたが、日本国民の窮状を察し救民の声を挙げた。これらの呼びかけが、時を経ずしてシカゴ在留の日系人たちにも拡がっていった。


一方、昭和20年(1945)12月には、早くもカナダ人でメソジスト派宣教師ジョージ・アーネスト・バット(George Ernest Bott:上の写真で左端に坐っているのが孤児たちと食事をするバット)博士の日本救援赴任が決定した。バットは大正10(1921)に初来日。宣教師として伝道の傍ら、都内日暮里(にっぽり)の愛隣団や根岸の根岸会館などで社会事業に従事していた。戦前、知る人からは西の賀川豊彦(かがわ とよひこ)、東のアーネスト・バットとも言われ、社会事業を推進したクリスチャンだった。彼が最初に日本への赴任を希望したのは、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)武士道を読み、日本という未知の国に魅了されたからでもあった。バットは、昭和21年(1946)1月、ニューヨークで開催されたアジア救援教会委員会にカナダの教会代表として出席、関係者と日本救済計画の検討を開始した。その結果、彼は同年3月22日、アメリカとカナダのメソジスト派、長老派、組合派、バプテスト派の各派合同によって組織された教会世界奉仕団の代表としてアメリカ福音教会宣教師ポール・スティーブン・メイヤー(Paul Stephen Mayer)と共に貨物船シー・サーペント号でサンフランシスコから出港、4月15日に横浜港に着いたとされている。だが実際には、彼は宣教師としてではなく、GHQのダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur:左の写真)の特別政治顧問として大佐の資格で、軍用機で単身秘密裏に来日していたのだった(三木弘秘話戦後日本の危機』1996年5月『火の柱』所収)。彼は、直ちに日本国民の窮状の調査を開始。救済計画の準備に着手した。また、マッカーサー元帥と救済運動についての打ち合わせも行っていたのである。

ほぼ同じころ、戦前来日していたカトリックのヘンリー・フェルセッカー(Henry J. Felsecker)神父が再来日し、関西方面での布教や救済活動を展開していた。フェルセッカー神父は昭和8年(1933)8月に初めて来日して以来、大津教会、高野教会で宣教活動を行っていた神父だった。(『』へつづく)

2010年7月26日月曜日

怪的な空の旅

旅客機を利用して遠く離れた知人を訪れる、或るいは本社から支社に出張する、或るいは何かの大会に出席する、、、いずれの場合でも飛行機はスピードの面でも、便利な点でも、近代社会の生活では最も重要な交通機関となった。各航空会社では「快適で愉しい空の旅」をテレビやラジオで謳い続けてきた。利用客は『快適な』事実を体験し、度(旅)重ねて利用し、老若男女を問わず空の旅を享受してきた。

そうした近代交通に影を落としたのが、2001年9月11日(ナイン・イレヴン)の同時多発テロ事件だった。ご承知の通り、保安の目的で搭乗客のチェックが厳しくなり、送迎客はゲートに立ち入り禁止となった。それでも、テロリストはチェックの目を潜って爆発物を身に着けて搭乗することがあった。


快適な』はずの空の旅を『怪的』にしたのはテロリスト達だけではない。特に大都市の飛行場は運行スケジュールは便が年々増加し飽和状態となり、予定通りの発着が遂行されないばかりか、欠航の止むなきに至ることもしばしば起こった。


また、年を重ねた航空機は機械的な不調を起すのは当然であろう。整備が行き届かない故障もしばしば発見された。発見されない不調もあるはずだ。


航空機の弱点の一つは、天候に影響されることである。濃霧による視界の不良化はレーダーでは救えない。雪や氷で滑走路が凍り、機体が文字通り思わぬ滑走をする。雷雨、暴風など悪天候を避けるとしたら、当然運行スケジュールが変更または欠航ということになる。


去る4月にアイスランドの火山が大噴火を起こし、噴煙がヨーロッパの上空を覆い、殆どの飛行場が無期欠航をし、飛行場には何日も身動きのできない旅客がターミナルに足止めとなり動きがとれなくなった事件は未だに生々しく記憶に残っている。

あれやこれやの『怪的な空の旅』に嫌気がさしたからでもなかろうが、セス・スチーブンソン(Seth Stevenson)地上に立って:大地を行く世界一周(“Grounded: A Down to Earth Journey Around the World”』左の写真)という紀行文を書いた。私は彼の心境に同感したのでここにご紹介する。


ジェット機時代を回避して、、、

セス・スチーブンソン(Seth Stevenson)
2010年4月、シカゴ発

アイスランドの火山噴火の噴煙に覆われたヨーロッパの飛行場で、かれこれ一週間も足止めを食わされた挙げ句、やっと運行が再開され乗客たちは目的地へ向かうことができたようだ。

政府の要人、ビジネスマン、一般の旅行者、貴賎の差別なく各々の旅程が混乱し、予定を台無しにさせられた人々は、この復旧に多分胸をなで下ろしたことであったろう。でも私は、ひねくれているかも知れないが、この不慮の事件がもっと長引けばよかった、と思っている。つまり、飛行機の復旧を待つ代わりに、タクシーをつかまえてスカンジナビア半島1万キロを突っ走るとか、馬車を雇ってアルプス越えをするとか、考えてみる ----- そうすることによって、旅が何やらロマンチックな気分を誘ってくれるような気がするからだ。


過去半世紀というもの、空の旅がそのスピードや便利さで、長距離旅行に欠かせない交通機関として独占してしまったようだ。だが、オーソン・ウエルズ(Orson Welles)が書いた素晴らしいアムバーソン一家(The Magnificent Ambersons)』の中で「旅を短急に済ませると、使える時間が限られる」と言っている。正にその通り、飛行機での旅に馴れると、自分の生活にゆとりがなくなってくる。旅の目的が仕事であれ、休暇であれ、予定が切り詰められ、短時間で遠距離の目的地を往復するようになるからだ。(右はシベリア大陸横断鉄道)

言い換えると、空の旅は往復の距離間隔(感覚)を無視することになるのだ。反面、車とか汽車で地上を旅すると、その距離間隔を自分の目の高さで、自分の身長に応じた事象を有意義に甘受するゆとりが生まれてくる。汽車なら展望車の窓から、波に揺られる船ならデッキの上から、移り変わる風景を楽しむ余裕がある。しかし、こうした体験は1万メートルの上空から雲の合間を通してだけしか得られない。(左の写真はオーストラリアの未開地)

といった考えから、私はガールフレンドのレベッカ(右の写真)と共に、飛行機を一切避けた世界旅行を企て実行した。

その旅程の内には、シベリア横断鉄道に乗り、モスクワからウラジオストックまでの大地を通り抜け、オーストラリアの荒れた大平原を車で横断した。こうした旅行を飛行機で飛べば、それぞれが半日もかからないであろう。だが、鉄道や車だったらそれぞれたっぷり一週間かかった。その間に、鉄道ではキャビンで一緒になった親切なロシア人とパンやチーズを
分け合って食べたし、オーストラリアの平原では一軒家のホテルでジャッカルー(jackaroos:アメリカでいうカーボーイ)とビールを呑んだりした。こうした心暖まる思い出は一生鮮明に記憶に残ることであろう。

大西洋航路の船(上左の写真)をご想像あれ。大海原の真ん中で星空を仰ぎ眺めたこと、甲板の手すりにもたれ、水面を見ながら見知らぬ船客と杯を交わし合ったことなど、下船した後でも忘れられない。

旅客船の運行予定は限られているから、貨客船を利用するという方法もある。私たちの旅程の一部では、フィラデルフィアからアントワープを結ぶ貨客船を利用した。あの時はパイロットのブリッジ辺りで船員と知り合い、航路の地図でどこを航行しているのか教えてもらった。食事は食堂で船員達と同じテーブルに坐り、彼らの生活の一端を覗かせてもらった。甲板では翼を大きく広げた海鳥を目の当たりに、また巨大なクジラの潮吹きや、イルカの群れが船と並んで泳いでいるのも見た。(上右の写真)


もし私が車で旅をしている時に、旅客機が頭上はるか彼方を飛んでいるのを見かけたら、あの細長いジュラルミン筒の中に腰掛けている乗客には体験できない数々の素晴らしい風景や出来ごとを見聞できた自分の人生が、如何に充実しているかということに、限りない幸せを感じないではいられないであろう。
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2010年7月21日水曜日

続マティス:『裸婦』の変遷と進化

キャロル・ヴォゲル(Carol Vogel)
7月11付け、NYTの評論から抜粋

(左から)マティス(Henry Matisse)は滅多に裸婦の後ろ姿を描くことがなかった。という訳で、この1908年から1909年にかけて創られた彫像は、マティスを知る人を驚かせた新方向の作品である。モデルは片方の腕を頭に挙げ、彼女の体は壁の面に密着して立っている。近代美術館(The Museum of Modern Art, New York)所蔵

(次に)この彫像は、マティスの作品の中では、高さ6フィート(183センチ)以上という最大のものである。上の4段階を制作するのに足掛け23年かけた。近代美術館の主任キュレーター、ジョン・エルダーフィールド(John Elderfield)の解説によるとマティスは最初、石膏を削り、その原型から二つ型をとった。一つはブロンズで、もう一つは次の新しい段階を始める石膏の原型とした」ということだ。

(この第三段階では)基本的に曲線で始めた裸婦の彫刻は、全体に角張って、背筋は直線的に変化してきた。従って、裸婦の頭、首筋、髪の毛などの細部も曲線部分が削り落とされている。

(最後に制作された)彫像をコンピューターで分析して制作の変遷と進化をみると、立体部分は、より平板になり、裸婦の背筋は柱のように直立し、全体の構成の中心部となった。

マティスが同時代に制作した代表的な作品ダンス
”Dance," Paris, Boulevard des Invalides:1909年)

この作品は、ロシアの美術収集家サーゲイ・シュチュキン(Sergei Shchukin)の依頼による。