2009年12月17日木曜日

世界のクリスマス・ツリー

ジェームス・ロング(James Long)から転送転送を重ねてこちらに届きました。『世界の』といっても、ほんの一部ですが、クリスマスを祝う世界の人々の歓びを味わってください。

アメリカ首府ワシントンDC、国会議事堂のツリー。学童の手作りになる3,000個の電飾で輝き、全50州を象徴している。

イタリアウムブリア地方(Umbria Region)、グビオ市(Gubbio)郊外に聳えるモンテ・インギノ山(Monte Ingino)の斜面に立てられた世界一大きいツリー。4万フィート(12,200メートル)の電線に500個ほどの電球が取り付けられている。古代都市に近代装飾が対照的に輝く。

★高層ビル、グランド・プリンス・ホテル・アカサカの窓にネオンで描かれたクリスマス・ツリーは東京の夜景を華やかに彩る。

プラハの古い街の広場に面したゴシック建築に映えるツリーは、名高いクリスマス市場(Christmas market)に設置された『キリスト降誕の馬屋』を照らす。この大木ツリーはチェコ共和国の南部スマヴァ山(Sumava)で伐採された。

★品質の高いガラス製品で世界中に知られているヴェニスムラノ島(Murano Island)で造られた世界一高いガラス製のツリー。ガラス吹きの名匠シモーヌ・セネディス(Simone Cenedese)熟練した近代感覚で創り上げた。

ロシア;モスクワのクリスマスは、ロシア教正統派(the Russian Orthodox)の暦に従って1月7日に祝う。その何週間も前から、フロースト神父(Father Frost)が魔法のトロイカの乗り、雪の精(the Snow Maiden)に付き添われて舞い降りてきたという伝説を祝う準備の祭りが始まる。神父雪の精(クリスマス・ツリーならぬ)ニュー・イヤー・ツリー(ヨルカ:yolkaとも呼ばれる樅[もみ]の木)の根元に贈り物を届けることになっている。

★ヨーロッパ最大のクリスマス・ツリー(230フィート[70メートル]以上ある)は、ポルトガル、リスボンプラカ・ド・コメルシオ(the Praça do Comércio)にそそり立つ。何千もの電飾が輝くこのツリーが、祝日シーズンを通してリスボンを絢爛と彩る。

「おー、クリスマス・ツリー、おー、クリスマス・ツリー、、、」これはまた、ささやかなツリーが、ドイツカーウエンデル山(Karwendel)に建つ小さな教会をささやかに輝かし、おとぎ話の雰囲気を醸し出している。

★おー、ラ、ラ、ガレリーズ、ラファエット(la Galeries Lafayette)パリでは、クリスマス・ツリーも粋でおしゃれ。この古風で荘重なバロック風のドームの下、10楷分の内壁に輝くファッショナブルな照明、天候に煩わされず、ここへ惹き寄せられる買い物客の数は、ルーブル博物館やエッフェル塔を訪れる観客の数より多いのは当然であろう。

ローマ、ヴァチカン宮殿(the Vatican)の聖なる常緑樹に加えて、セント・ピーターズ広場(St. Peter's Square)には、巨大なツリーがオベリスクを背後にしてそそり立つ。

プエルタ・デル・ソル(the Puerta del Sol)でクリスマス・ツリーが装いも新たに、祭日を祝う通行人をお出迎え。ここスペイン、マドリッドの2週間に亘る祝日は、市民の心を大いに豊かに、とても楽しくしてくれる。12月22日は、世界一の『くじ引き日』で誰かがエル・ゴルド(El Gordo:大当たり)を射ち止める。

ロンドントラファルガァ広場(Trafalgar Square)のクリスマス・ツリーは、ノールウエィの国民が第二次世界大戦中、イギリス軍に救われたことへの感謝の標しとして、1947年以来、毎年贈られてくる。

ロメル・フランクフルト(the Romer Frankfurt's)の市庁舎で、祝日マーケット(the holiday market)で買い求めたグルーワイン(gluhwein)のグラスを一杯傾け、中世のクリスマスを偲び味わう伝統1405年以来続いている。

★丈の高い樅の木を背景に、色とりどり3本の可愛いクリスマス・ツリーが夜を彩って輝く。(所在地不詳)

アメリカの首府にあるアーリントン国立墓地(有名無名戦士の墓)のクリスマス:眠れ安らかに、わが兄弟よ。戦列を保持し、為すべきことを成し遂げたあなた方。眠れ安らかに、眠れ深々と。あなた方が倒れたあと、他の兵士が引き継いで戦った。安らかに、安らかに、さようなら、、、。
[付記:墓石を飾る約5000個の花輪は、メイン州ハリングトン市(Harrington, Maine)のウースター花輪会社(The Worcester Wreath Co.)が輸送費も含めて寄贈したものである。社長のメリル・ウースター(Merrill Worcester)は、1992年以来
毎年この寄贈を続けている。またこの時期になると、メイン州の学童たちが課外授業を兼ねてワシントンを訪れ、墓石に花輪を配る手伝いもしている。もう一言、、、ハリングトン市はメイン州の中で最も貧しい街であることも心に留めておいていただきたい。]

付録

ニューヨーク近郊のクリスマス・デコレーションがNYTの読者から寄せられ、選ばれた80点近くが掲載されています。青字のリンクをクリックなさるとご覧になれます。

駄洒落は百薬の長

とかく重苦しいニュースが多い今日この頃、あまりクヨクヨせず、大笑い、苦笑い、片えくぼ、何でもいいから眉を開いて笑いとばしましょう。

四文字のユーモア
『新』儀式と同時期に住友生命が募集した年の瀬恒例の、駄洒落(だじゃれ)四文字熟語をご紹介する。名作迷作の審判やいかに。

●派遣切りや解雇で仕事を失った人々が「断雇反対(だんこはんたい:断固)」。
●「政権好待(こうたい:交替)」が実現。
●新政権の「鳩世済民(きゅうせい;救世:さいみん)」の手腕はいかに。

●新型インフルエンザ予防で白いマスクを着用。日本中が「顔面総白(がんめんそうはく:蒼白)」に。

●通勤電車も人混みも「一咳触発(いっせきしょくはつ)[一触即発:いっしょくそくはつ]」の怖れ。
●ワクチンは足りず、切歯扼腕[せっしやくわん]ならぬ接種待腕(せっしゅまつわん)」した。
●高速道路の「千円」は功罪相い半ば して「遠奔千走(とおほんせんそう:東奔西走:とうほんせいそう)」し、

●そのおかげで「千車万列(せんしゃばんれつ千差万別:せんさばんべつ)」の大渋滞。

●暦の 魔術で初の「秋休五日(しゅうきゅう:週休)」が実現。

●「司民参加(しみん:市民)」の裁判員制度が始まり、

●「判官判民(はんかんはんみん:半官半民)」の裁き。
●白昼の天体ショーは「皆祈日食(かいきにっしょく:皆既日食)」に無情の雨。

●米旅客機が川に不時着。「一機冬川(いっきとうせ ん;一騎当千)」で全員無事。
●石川遼のゴルフを観戦したい「一目遼戦(りょうせん:瞭然、りょうぜん)」のギャラリー。

●国宝、阿修羅像展は長蛇の盛況、人々は「阿美共感(あびきょうかん:阿鼻叫喚)」した。


毛生え薬
20年ほど前のある土曜日、私はホノルルのワイアラエ、カントリー・クラブ(Waialae Country Club)で知り合いとゴルフを楽しんでいた。ゲームが終って昼食のテーブルで、皮膚科のエディ江村医師が私の薄くなった頭を見て「君の頭にはまだ産毛が残っているから、最近出たMINODIXIDIL(商名Rogaine)皮膚薬Retin Aを試してみなさい」と、紙ナプキンに処方箋を書いてくれた。希望を新たにした私は、早速実行し、薬が付着した手に毛が生えたら嫌だなと思いよく洗っていたが、一年後にその心配が無用だったことが判った。それまで、鏡を見る度に毛が生えてきたような気配を感じるので毛生え薬ではなく気配(ケハイ薬)」だったことを悟っただけでなく、商品名『Rogaine』とは『Lowgain (得ること少なし)』だったことにも気が付いた。-----アラン灰田------

枯れ木に花を
上記、ワイアラエ、カントリー・クラブの常連の一人に、歌手のダニー・カレキニ(Danny Kaleikini:右の写真)がいた。永年カハラ・ヒルトン・ホテル(Kahala)でディナー・ショウに出演していたが引退した。その後は、日本人のファンが多かったので、日本でのショーや結婚披露宴などに出演しダニー・カレキニです、はじめまして、宜しくお願いします」と愛嬌たっぷりに日本語で挨拶をして受けていた。それを聞いた私は「君も大分年をとって頭も白くなったことだから『私も年をとりましたが、これからカレキニ(枯木に)花を咲かせます』と言ってみたら」と助言した。人伝てによると、その後ダニーは毎度「枯れ木に花を、、、」を繰り返し、宴会で花を咲かせているとのことだ。しからば私としては、ジョークの著作権使用料をダニーに請求しなければ、と考えている。-----アラン灰田------
ダニーカレキニが歌う『別れの磯千鳥』をお聴きください。

ハンディは上がるのか、下がるのか?
合気道の達人、藤平光一先生がある日、元ハワイのフットボール選手だったウィティマイヤー(テレビ番組『ハワイ、ファイヴ・オウ』のポリス役でも知られている)に招待され、上記のワイアラエ・カントリー・クラブで合気道の講義をした。その時先生は、心身統一により、ゴルフの上達も可能であることを力説した。 後で先生は英語で著書を出版し、私も一冊頂戴した。読んでみると、ゴルフ上達法の一部に「如何にハンデキャップを上げるか」とあった。先生はハンディキャップは上達すると、上がるのではなく下がるのだとは納得していなかったようだ。-----アラン灰田-----

人間工学、日米の違い
ロサンゼルス、アート・センター・スクールの学生だった頃、日本のジェトロ(日本貿易振興機構The Japan External Trade Organization:JETRO)から数人が、アメリカ視察旅行の一環として我が校を訪問してきた。私は案内役を仰せつかり、夕食を共にした。その時、一行の一人だった或るデザイナーが「アメリカ人のファンクション(設備機能)に対する認識が低い」と批判していた。「どうしてですか?」という私の疑問に答えて彼は「アメリカでトイレットを体験した限り、どこでもペーパーの位置が便器の反対側に取り付けられている。全くヒューマン・エンジニャリング(人間工学)を無視していて、実に不便(いかなる便だろうか)だった」と説明してくれた。何のことはない、彼はトイレットを使う時、水槽側に向かいペーパーを背後にして坐っていたのだった。-----アラン灰田-----

2009年12月15日火曜日

一字の漢字に思う

黒崎 次郎(くろさき じろう)
オハイオ州トレド市

日本の新聞に、今年2009年の世相を反映する漢字としてが選ばれたと発表されていた。京都市の日本漢字能力検定協会が、郵便やインターネットで募集し、昨年を約5万票も上回る過去最多の161,365票が集まった。は、鳩山新政権の誕生や米オバマ新大統領就任、新型インフルエンザの猛威、イチローの新記録、などから連想した人が多く、14,093票(8.73%)を獲得して入賞。2位は芸能界などの薬物汚染とか、インフルエンザのワクチンにちなんで(10,184票)、3位は政権交代を象徴する(5,356票)だった。(右の写真:12月11日、京都の清水寺で今年の漢字を揮毫する清水寺の森清範(もり せいはん)貫主;毎日新聞西村浩一撮影)

私にとって、日本語は自身を形成する誇りある文化の重要な一部である。その気構えをもって、日本に興味をもつアメリカ人に日本語を教えている。従って、私は毎年上記の行事の成り行きを特別な関心を抱いて見守ってきた。日本語が乱れていると言われている一方で、こうした漢字への関心が高まっているという傾向は喜ばしいことだと思うが、正直なところ釈然としないものがあり、諸手を挙げて賛成できない理由が幾つかある。

一字の漢字が持つ意味
私が生徒に日本語を教える時、会話と並行して仮名と漢字』の読み書きも教えている。『平仮名と片仮名』を先ず修得させてから漢字に入る。通常ここで生徒たちは4
,300字という漢字の数に戸惑う。そこで私は漢字は単なる文字ではなくそれぞれが意味を持っている。17万語ある英語のことを思えば驚くことはない」と言って安心させた後で日本の言葉、即ち熟語(じゅくご)は多くの例外を除いて、おおむね二つの漢字の組み合わせで成り立っている」と付け加えることを忘れない。

例えばの意味は「たいら」「なみの」「ひとしい」「さだまる」「つね」「ひら」など、そして「やわらぐ」「やわらか」「ととのう」「たいらぐ」「おだやか」「かなう」「やまと」といずれも漠然としているが、平和熟語になれば意味は明確に限定される。
今年の「あらた」「あらためる」「したしむ」など、一字だけでは漠然としている。或は協会が意図的に漠然とさせているのかも知れない。

日本漢字能力検定協会の権威は?
私は戦前から戦後にかけての動乱時代に教育を受けた。戦後、旧漢字を単純化する意図をもって文部省(だと思う)
によって当用漢字なる制度が適用され、折角修得した漢字の多くを放棄させられた。最大の被害は木偏』が付く樹木の名魚偏』が付く魚の名、そして金偏』の漢字の多くが追放されかな書きにすることになった。懸命になって覚えた漢字と別れを告げた苦々しい記憶がある。

私の息子が生まれ、区役所へ届けに行った時、窓口の役人が当用漢字表なる小冊子を放り出し「これに含まれていない漢字の名前は受け付けられないから、調べてから出直して」くるよう言い渡された。不幸にして、女房と『姓名判断』までして考えついた息子の素晴らしい名前の漢字は掲載されていなかったので、白紙から考え直さざるを得ない羽目になった。


その数年後、当局はとかのように人名によく使われている漢字を慌てて追放解除にし人名当用漢字表を追加した。 そのような制度の目を潜ってか、執行猶予になっていたのか、愛知県刈谷市には、弌、子、弘、治、 春、、など、読めないような金偏』漢字の名前の人が続々と存在する。

かかる権威に振り回された国語教育を受けてきた私は日本漢字能力検定協会などという厳めしい名前
を聞いただけで恐怖に近いアレルギーが起こってくる。何やら日本国民の漢字能力が監視され、漢字の使用法まで規制される制度が復活するのではないか、と心痛に堪えない。

絶対多数の意見が正しいとは限らない
協会はの採用に当たって投票制度をとったそうだ。誠に民主主義を地でいった形ではあるが、多数決が常に正しいとは限らない。ガリレオ「世界は球体である」と発表したが大多数に反対されて苦境に立たされた。多数が間違っていた良い(悪い)例である。を選んだ人が
14,093いて1位となったそうだが、全投票の一割にも満たない8.73%であったことに首を傾げたくなる。

清水(きよみず)の舞台から

名刹清水寺(きよみずでら)の貫主が金ピカな朱の袈裟(けさ)をまとい、巨大な筆で墨痕鮮やかにを書き上げる状景は、さぞ劇的な儀式であったろうと想像できる。お祭り結構、儀式も結構、敢えて反対は唱えない。しかし、である。その光景から私は戦時中に政府と宗教が結びついて一億総決起を掲げ、小学生までが一億一心という書き初めを強制された思い出が蘇ってくる。あの時は夢中だったが、冷めてみると『洗脳されていた』ことに寒々とした怖れを抱かざるを得ない。協会が持つ権威の程度が気になる由縁でもある。

2009年12月14日月曜日

電話、133年の進化

世界で初めて実用に役立つ電話を発明したのが、誰でも知っているアレキサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell:1847〜1922)、申請した特許が許可されたのが1876年3月7日だった。ほぼ同時期に、ほぼ同様の仕組みの電話を発明したのがエリシャ・グレイ(Elisha Gray)だったが、特許の申請でベルに一歩遅れ、機械と共に消滅してしまった。発明は特許の『早い者勝ち』という厳しい世界、ベルの名だけが電話の歴史に輝かしく残った。

その後一世紀と33年、昨今の電話の驚異的な進化は、ベルをはじめ誰もが想像の及ぶところではなかったに違いない。ここで電話の進化を振り返ってみるのも一興であろう。


1876(明治9年):ベルが特許を取った世界で初の電話(上)
明治10年、アメリカから初めて電話器を輸入。


1878(明治11年):日本で初の国産第1号電話器(左)  
1890(明治23年):ガワーベル電話器
(中);東京と横浜の間で電話が開通;
明治26年「もし、もし」が流行して定着。
1896(明治29年):デルビル磁石式、壁掛け電話器
(右)
1897(明治30年):デルビル磁石式甲号、卓上電話器(左)  
1897(明治30年):デルビル磁石式乙号、卓上電話器
(中)
明治32年、東京と大阪の間で長距離電話が開通。
1899(明治32年):ソリッド・バック磁石式、壁掛け電話器
(右)

1903(明治36年):グースネック共電式、壁掛け電話器(中)
明治42年、東京と富士山頂の間で電話が通じた。
1909(明治42年):2号共電式、壁掛け電話器
(左)  
1927(昭和2年):2号自動式、卓上電話器
(右)
1933(昭和8年):3号自動式、卓上電話器(左)  
1950(昭和25年):4号自動式、卓上電話器
(中)
1953(昭和28年):23号自動式、壁掛け電話器
(右)

1962(昭和37年):600号自動式、卓上電話器(左);昭和40年、新幹線に電話を設置。
◆ダイアル式からプッシュ・ボタン式の過渡期、デザイン志向の電話が生まれた。
(中)
1969(昭和44年):プッシュ・ボタン(アメリカでは『タッチ・トーン』)式、卓上電話器(右)

1970年代から1980年代まで、様々なデザインが生まれては消えていった。

1983年あたりから、携帯電話(Cellular Phone)が普及し始めて今日に至る。その百花繚乱(ひゃっかりょうん)振りはとてもこのページでは紹介し切れない。
目下の時点で最も多機能でハイテク、人気の頂点にあるのがアップル社のアイフォーン(iPhone)であろう。

もし、かくの如きハイテク電話にご興味がおありだったら、"The Evolution of Cell Phone Design between 1983~2009” のサイトをご覧になることをお奨めする。
なお、当記事に掲げた資料の大半は日本電電公社の史料から抽出した。

2009年12月10日木曜日

天皇ヒロヒトの映像

天皇『ザ、サン(太陽)』が傾いた時
マノォラ・ダルギス(Manohla Dargis)
11月18日付け、NYTの映画批評から

ロシアのアレキサンダー・ソクロフ(Alexander Sokurov)が監督した華麗にして奇異な映画ザ、サン(The Sun)』で、(イッセー尾形が演ずる)天皇裕仁(ひろひと)が、そっと大事にしていたカニを熱心に眺め、背景音に軍用機が墜落していく爆音が消えていく一場面がある。白っぽく醜怪で目立たない甲殻動物を見つめて「何という奇跡だ!」裕仁がつぶやいるのを侍従の一人が聞いている。「神々(こうごう)しいほどの美しさだ!」と言ってカニを見つめている裕仁の場面で、観客は、小動物が生きている汚い水槽環境を写す沈鬱な画面から、現実の何かを連想させられる。

ザ、サンの筋書きの大半は、1945年(昭和20年)の敗戦の前後から、それに続く時代における裕仁とその低迷した皇居内の禁じられた内部を描写している。この映画は、ソクロフが歴史的な想定で製作した三部作の第三番目である。第一作は、ヒットラー(Hitler)とエヴァ・ブロウン(Eva Braun)がバーバリアン・アルプス(Bavarian Alps)の家で生活している様を描いたモロック("Moloch" 1999)』で、第二作レーニン(Lenin)の死にまつわるトウラス("Taurus" 2001)』であった。ザ、サンは歴史の流れを詳細に描いてはいるが、通常の劇化ドキュメンタリー(ドキュラマ; docurama)ではなく、権力を剥奪され人間性を露わにした人物の肖像画を印象的に描いている。(実は
ザ、サンは4年前、2005年にベルリン映画祭で封切り公開され、最高映画の一つに評価されていたが、やっとアメリカの劇場に輸入され、2009年の最高映画の一つという前評判が高まっている。)

人間天皇の描写は、皇居における裕仁の、食事から着付けに至まで侍従や付き添いによって行われる日常生活から始まる。(佐野史郎が演ずる)侍従の一人が囚人監視員(あるいは乳母)が見せるような視線を常に裕仁に注ぎ、次から次と皇室の日程を伝え、その中には『個人的に過ごす時間』まで組まれていた。「もしアメリカ人が訪問してきたらどうする?」と訊く
裕仁。その質問に対して、侍従は、1924年(大正13年)にアメリカの東洋人排斥移民法で味わった『屈辱』を例に挙げて強引に却下する。「あっ、そう」と不透明に応え、水槽の金魚のように口をパクパクさせるだけの裕仁

占領軍の最高司令官(ロバート・ドウソン: Robert Dawson 演ずる)ダグラス・マッカーサー元帥(General Douglas MacArthur)が重要問題の連絡で現われ、裕仁は急遽続けて二回の会合を持つ。裕仁は友好的に接待したものの、遠回しなアメリカの占領政策計画の説明にやや圧迫を感ずる。この間の模様を書いた脚本はユリィ・アラボフ(Yury Arabov)によるもので賢明で達者な筆致で浮き彫りにされ、それに従って監督ソクロフは、二人の登場人物の表情:マッカーサーの勝者の笑みと、裕仁の虚勢を張った頑くなな顔面とにカメラを向け、交互の心理状況を巧みに描き出している。(右は、昭和20年9月17日の朝、天皇裕仁がGHQのマッカーサー元帥を訪問した時の写真。新聞に掲載されて皇室側から苦情が出たが、後のまつりだった。)

その会合が終った直後、裕仁マッカーサーから離れ、閉まったドアの前まで歩んでから不器用にたじろぐ。そこで観客は現人神(あらひとがみ)である天皇が、いまだ且つて自分でドアを開けたことがないことを悟る。この些細な悲喜劇的一コマが、それから間もなく裕仁人間宣言をすることへの暗示的な一瞬でもあったのだ。


[戦争中でも]神格扱いされることに忸怩(じくじ)とし、人間性を主張していた裕仁は、それに抵抗を感じていた側近たちに「私の体形は、どの日本人と比べて少しも変わりがないではないか」と自衛的に抗議していた。彼が自身の『人間性』を主張していた反面、軍隊の指導者たちに対する時は、その言葉遣いや行動が『思い』とはかけ離れた形で現われていた。海軍が惨敗し、陸軍が撤退し、敗戦の色が濃くなったニュースが届いた時、裕仁は目をパチパチさせ、口を(金魚のように)パクパクさせ、祖父明治天皇の御製『四方(よも)の海、みな同胞(はらから)と思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ』を取り出して読み上げ、(訳註:それは対米宣戦布告をする前、1941年(昭和16年)のエピソードであって、敗戦間際の1945年ではない。)「降伏は日本帝国や国民の伝統と反する」とし「我々は勝ち残るために戦わねばならない。わが国民のためになる平和こそが、唯一の平和である。太平洋の波高かるべし」と結んでいる。

裕仁が戦争遂行者であったというイメージは、名誉を重んじ平和を探求し、1989年の死後に表面に出た修正主義者という人格』とは全く相反する。ハーバート・ビックス(Herbert P. Bix)が2000年に発表したヒロヒトと近代日本の建設(Hirohito and the Making of Modern Japan)』の中で「ヒロヒトは(昭和3年に)即位した発端から行動的な天皇だと思われていた反面、消極的な皇室の自衛的な設定を試みていたという矛盾が見られる。世界の国々からは、政策設定や決定権を行使する重要な地位にある人物という印象はなく、無能な傀儡(かいらい)に過ぎず、特筆に値する知的な宣言に欠けていた、と考えられていた。実際には、人々の評価は過小で、彼は賢明で口やかましく、エネルギッシュでもあった」と記述している。

それはともかく、ソクロフ監督は日本の歴史そのものに焦点を当てることには興味を示さず、そこから離れ、権力の条理が心理的に動かされていた世界を
ザ、サンに織り込んでいる。ソヴィエトの国家統制主義(totalitarianism)時代に生まれ育った映画製作者として、当然のように帰着した制作姿勢であろう。大日本帝国の欠陥がソクロフ監督の手で、その陰鬱で特異な美しい映像----19世紀風の柔らかい画面で表す時代的な雰囲気------が見事に伝えられている。

自然博物館の片隅に取り残されて埃をかぶり蜘蛛の巣が張った展示物を見つめている貴方を想像してごらんになると判る。映像とは不思議なもので、あまりにも人間臭い人々の挙動を眺めている内に、背景にある破壊的な戦争の凄惨さが生々しく沸き上がってくる。

2009年12月8日火曜日

追悼:写真家アーヴィング・ペン

去る10月7日、写真家アーヴィング・ペン(Irving Penn)が亡くなった。享年92才。
(下の肖像は1951年の撮影、ペン34才。)

アーヴィング・ペンは20世紀の写真家の中で、最も多作で最も影響力のあった写真家の一人である。彼の被写体はファッションと著名人が主で、その作風は古典の優雅さと冷静なミニマリズム(単純化されて繊細な表現主義)に徹していた。1943年以来、ヴォーグ(Vogue)などのファッション雑誌に永年に亘りしばしば掲載されたが、一目でペンの作品と判る明確な個性を見せていた。

例外的に1950年頃、宣伝用にクライスラー(Chrysler)の新車の撮影を引き受けたことがある。まだ宣伝物の商品は車に限らずイラストが主流で、宣伝に使うのに値する車の写真を撮影できる写真家が生まれていなかった。だが、デトロイトは自動車産業の中心地、自動車を撮影できる大型のスタジオや設備だけは整っていた。依頼を受けたアーヴィング・ペンは、課題であるクライスラーの新車を前にして腰を下ろし、角度に注文をつけ、照明をあれこれと調整し続け、満足できる条件に達して撮り終わるまでたっぷり一日かかった。

助手を務めていたある写真家は、そのペンの制作態度をつぶさに観察し「まるでキャンバスに向かった画家が」慎重に照明の強弱、角度、拡散度を「丁寧に描いているようだった」と感銘し「あれほど美しい自動車の写真は見たことが無い」と絶賛していた。これは一部の間にしか伝わっていないペンの伝説的なエピソードである。


アーヴィング・ペンの名を知らない方でも、ペンの作品をどこかで見たことはある筈だ。以下はペンの作品のほんの一部だが、彼の作風を偲ぶには充分であろう。蛇足だが、モノクロの写真の成否の鍵は、何といっても照明による光と陰の描写にかかっている。

左:イゴール・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky)、ニューヨークにて。1948年
右:シモーヌ・ド・ボーヴォワ(Simone de Beauvoir)、パリにて。1957年

左:バラをもつ婦人(ラ・フォーリ La Faurieのドレスを着たリサ・フォンサグリーヴス・ペンLisa Fonssagrives-Penn)パリにて。1950年
右:ジャン・コクトウ(Jean Cocteau)、パリにて。1948年

左:ハーレクイン・ドレス Harlequin Dress (モデルはリサ・フォンサグリーヴス・ペン) ニューヨークにて。1950年
右:『最も多く撮影された12人のモデル達』ニューヨークにて。1947年

左:イングマー・バーグマン(Ingmar Bergman)、ストックホルムにて。1964年
右:ジョージア・オキーフ(Georgia O'Keeffe)、ニューヨークにて。1948年


左:『バレー・ソサイエティ(Ballet Society)』(左から:コラド・カグリCorrado Cagli;ヴィットリオ・リーティVittorio Rieti;タナクイル・ラ・クレロクTanaquil Le Cleroq;ジョージ・バランチンGeorge Balanchine)ニューヨークにて。1948年
右:『クズコの子供たち(Cuzco Children)』、クズコにて。1948年


左:『グラスを傾ける女性(モデルはメリー・ジェーン・ラッセル Mary Jane Russell)』、ニューヨークにて。1949年
右:『No.52、葉巻』ニューヨークにて。1972年


左:『家政婦(Charwoman)』ロンドンにて。1950年
右:トルーマン・カポテ(Truman Capote)、ニューヨークにて。1965年


左:『ヌード58番』ニューヨークにて。1949〜50年
右:『コレット(Colette)』パリにて。1951年


左:『アサロの泥人種3人(Three Asaro Mudmen)』ニューギニアにて。1970年
右:パブロ・ピカソ(Pablo Picasso);フランス、カンヌ、ラ・カリフォルニアにて。1957年

2009年12月4日金曜日

潜水艦:戦後の末路

AP通信およびヘンリー・ファウンテン(Henry Fountain)の報告を統合
2009年11月12日 NYT

太平洋戦争は、1945年(昭和20年)8月15日に日本が無条件降伏をして終わりを告げた。


しかし、敗戦を知ってか知らずか、日本海軍の潜水艦数隻が太平洋の水面下で使命を果たすべく潜行を続けていた。その使命とは、アメリカ本土の都市およびパナマ運河の爆撃で、(永遠に下りることのない)その指令を待っていた。(左は、主翼をたたんだ愛知製の艦上爆撃機)

その内の一隻はイ-201号、先進の流線型、船体に引っ込む銃砲、潜水中で時速20ノット、当時のディーゼル内燃機では最も速い潜水艦で、レーダーなどの探索を妨げるよう外壁はゴム層で覆われていた。

別の一隻はイ-14号(右の写真の後方)、全長400フィート(122メートル)という大型で速度は遅いが世界を一周できるだけの燃料を確保し、1,800ポンド(816キロ)の魚雷をそれぞれ装着できる艦上爆撃機、愛知製、M6M晴嵐(せいらん)を2機搭載していた。格納中は主翼を折り畳み、出撃時は甲板のカタパルトから発射(離陸または離艦)される。(唯一機だけ現存する晴嵐は、スミソニアン博物館: Smithsonian Instituteに保存)


時すでに遅く、日本海軍の潜水艦はアメリカにとって脅威ではなくなっていた。日本の潜水艦勢力と第二次世界大戦の共同著者の一人、オールド・ドミニオン大学(Old Dominion University)歴史学教授カール・ボイド(Carl Boyd)の言によると「アメリカ海軍は日本の潜水艦の動静を常に監視していた」とのことだ。

戦後一年経った1946年(昭和21年)、上記の潜水艦を含む5隻は米側に拿捕(だほ)され、検閲の目的で真珠湾に運ばれ、その後オアフ島南沖で爆破され約2,600フィート(約792.5メートル)の海底に沈められた。(その乗組員について触れていないが、彼らは一時的に拘束された後、日本へ送還されたと思われる。) 爆破の理由は多分、戦後米ソ間で情報交換を協定していたが、調査結果をロシアに知らせたくなかったためであろうとボイドは推測する。それに、拿捕された時の潜水艦はネズミが走り回っていてむさ苦しく、保存には耐えられない状態だったそうだ。(右上の写真は在りし日の
、中央の『イ-401号』と後方の『イ-14号』)

それから63年経った今年の2月ハワイ海底調査研究所(Hawaii Undersea Research Laboratory)の深海調査艇が、前述の潜水艦2隻(『イ-201号』と『イ-14号』)を発見した。(左の写真)そのドキュメンタリーがナショナル・ジオグラフィック(The National Geographic Channel)のテレビ・チャンネルで最近放映された。1946年の爆破状況を一水兵が16ミリ・フィルムに収めた影像も、そのドキュメンタリーの一部で放映されたが、その背景にダイアモンド・ヘッド(Diamond Head)オアフ島の沿岸が写っているので沈没地点がほぼ推測できる。

同深海調査艇のパイロットで研究部長のテリー・カービー(Terry Kerby)、およびマックス・クレマー(Max Cremer)オアフ島南沖の海底は、第二次大戦の巨大な博物館だ。遺物の発見は大成功だ」と異口同音に興奮している。同研究所は、ハワイ大学内に所在する国立海洋環境管理局(The National Oceanic and Atmospheric Administration: NOAA)およびナショナル・ジオグラフィックから財政的に援助を受けている。


1992年(平成4年)以来、カービー
試験的に真珠湾攻撃を攻撃して沈んでいるはずの人間魚雷(Midget Sub)』の捜索を始め、2002年(平成14年)に残骸を発見した。

2005年(平成17年)には、研究所の科学者たちが、航空機(多分艦上爆撃機であろう)を3機搭載した日本の潜水艦イ-401号の残骸を発見した。

NOAAの海洋保護計画に当たっていたハンス・ヴァン・ティルバーグ(Hans K. van Tilburg)「これは、非核潜水艦では史上最大であろう。第二次大戦後期における日本の先進技術を示すものだ」と認めている。