2010年8月18日水曜日

ハイテク時代の姥捨て山(うばすてやま)

(はじめに)東京都の男性で最高年令者が111才だとされていた人が、実は32年前に死亡していたことが判った。続いて、都内の女性で最高年令者が113才だと言われたが、この人は住民票の地番には居住せず存在生死も不明だった。

神戸では125才になっている筈の高齢女性は住民登録上の住所は誰も住んでいない公園になっていた。大阪の127才と目される男性は、別の区で死亡届が出されていたので、台帳の記録から消されていなかった。

こうした付け落としの記録が発見されて以来、100才を超える高齢者の所在不明が続 々と明るみに出てきた。都会が『砂漠』と呼ばれるようになって久しいが、人口が過密になり、文明が進むにつれ『砂漠化』に拍車がかかり『姥捨て山』化しているようだ。その上、個人情報保護法が、他人同士はもとより、親族の絆(きずな)まで稀薄にした。住民の記録は役所のコンピューターで事務的に処理され、孤立し、孤独に老い、孤独に生きる社会に変貌しているようだ。

長寿大国、日本を誇りにしていたが、こうした実態に触れると失望と、稀薄になった人間関係にやり切れない焦燥を感じないわけにはいかない。そんな気分が消え去らない内に、この幻滅のニュースが地球の反対側で取り沙汰されていた。以下、数日前にNYTに掲載された評論をご紹介する。編集:高橋 経


日本で、今は亡き多数の最高年令者を確認

マーチン・ファクラー(Martin Fackler)
2010年8月14日付け、NYT掲載から全文

東京発:日本は長いこと、世界で最も高齢者の多い国、という評判をとってきた。多くの人がその理由として、西欧諸国とは比較にならないほど食生活が優れ、老人に敬意を表し大事にするからだ、としていた。


その伝説が’崩れたのは、111才という高齢であるはずの男性が30年以上も前に死亡していて、警察が発見した時はミイラ化していた事実が発表されてからである。警察の調べによると、81才になる死者の娘は、父の死を隠し、生きていることにして月々の年金を受け取っていた、ということだ。


この事件が警鐘となり、地方の役所は調査官を高齢者の住居に派遣して生死を確かめさせた。調査官によって判明した事実は落胆以外の何ものでもなかった。(上の写真:神戸市の担当官(左端)が先週、わたせ・みつえ(100才:中央)老女の家庭を訪問中)

東京都で113才と最高年令だと思われていた女性を最後に見掛けた人は、30年ほど前のことだった。別の125才と思われた世界最高の長寿者と思われた女性は、永年行方不明、従って生死不明だった。1981年(昭和56年)市役所の係官が、その老女を訪ねようとしたら、住所が誰も住んでいない市の公園だった。

今日までに、役所の担当者が、記録上100才以上の高齢者を訪ねようとしたが、281人以上が所在不明だった。こうした実態を非難する一般国民に対処すべく、長妻昭厚生大臣は、担当官が110才以上の高齢者に漏れなく面会し、生存を確認せよ、と通達;東京の担当官は、都内に居住する100才以上の長寿者3千人を訪問することを約した。


この事実が表面化して以来、行方不明の老人数が日々に増加し、マスコミには嘆きの記事が続々と掲載され、日本国中の一般大衆から関心が寄せられている。日本最大の日刊毎日新聞の論説でも「これが長寿国と言われる日本の実相なのか?」と慨嘆を表明した社説が発表された。

担当官の一人が確認した生存者は佐賀県の南に住む113才の婦人で、この女性が日本では最長寿者と信じられている。

この急速に老人社会となったこの国で行方不明とされている長老者たちの捜索で、、、自己分析診断によると、、、すでに過剰な負担を負わされて手一杯になっている老人養護施設、そんな状態に付け込んだ詐欺行為、ほぼ連日のように老人の孤独な死がその自宅で発見、などが明るみに出た。


今の所、行方不明の長寿者に何が起こったか、について明確な解答が出されていない。日本では、蔓延している年金の詐取行為が発見され、あるいは、役所で殆どの係官が処理していたような、ズサンな住民記録の為に起きた問題なのであろうか?あるいは、こうした不浄な事件は、評論家たちが「若い世代が親達を粗末に放逐して家族が崩壊していることによる結果である」と眉をしかめて語るような世相が招いたことなのであろうか?


国際医療福祉大学( International University of Health and Welfare )の、高橋ひろし教授は(註:同大学のサイトに高橋精一郎教授の名はあったが、『ひろし』なる教授
の名は見当たらなかった。)「これらの事象は老人遺棄の現われです。今や、都市の社会では、ますます崩壊の一途を辿る親族関係の渦中での老人の現実が表面化してきたのです」と語っている。

調査担当官たちは社会心理学的な見地から説明をしている。彼らの観測によると、一部の長老者たちは単純に老人施設に移っているが、一方で、ミイラ化した遺体が発見された一件のように、更に多くの老人たちが死亡してしまっているのではあるまいか、と疑問視している。

東京足立区を担当している係官達が、日本で最長寿者と考えられていた加藤そうげん(Sogen Kato)を祝福すべく、その自宅を訪れた時、加藤老人は既に屍体となってた。その時以来、彼らは『長寿者』への疑問を抱き始めたのである。

担当官たちによると、加藤老人の娘がチグハグな証言をしていた、とのことだ。初めの内「父が担当官に会いたくないと言っていたから」と言い訳し、後で「今日本のどこかで仏教のお説教をしているから、どこにいるか判らない」と言い換えた。同居していた孫娘が「祖父は1978年(昭和53年)以来寝たきりだ」と告白したことから、警官が立ち入り調査をすることになった。


加藤老人の家から数丁離れた家庭でも似たような一件が見付かった。その家には『103才になる(はずの)男性の老人』の住居だったが、その縁者は「老人は38年前に家を出たきり戻ってこない」と言っていた。だが、73才になる老人の息子は「いつの日か父が戻って来た時の用意に父の年金を受け取り続けている」と語った。

足立区役所の住民登録部門のはじかの・まなぶ係長は「こんな事情について誰も全く疑いをもっていなかったようです。でも、不在の老人の年金を受け取るため、故意に老人の行方不明あるいは死亡の報告を怠っていることは明らかに犯罪です」と憤懣していた。


一部の医療福祉の専門家たちは「こうした事件は、子供が親の面倒を看るのが当然とする社会に、親達を養護施設に送り込んだ方が良い、という歪んだ考え方を持たせるようになります」と分析。専門家たちは、更に高齢化が進み、親達の平均寿命が長くなるということは、その子供たちが親の面倒を看る頃には、彼ら自身が70才台という、誰かに面倒を看てもらはなければならない年令になっている可能性が大きい、とも観測している。

少なくとも一部の件で、地方の担当官は、不明朗な家庭から逃避した年老いた親もあったと証言していた。専門家たちは、老いた親たちは脳障害とか他の重症で医療費が嵩むことを恐れ、また家族もその負担に耐え切れなくなり、親の面倒を看なくなり、また失踪しても警察に届けない、などの例を挙げた。


関係官庁で多数の『100才以上』老人が所在不明であることが明らかになり、人口統計学者たちは、その老人達の所在、生死、を確認するのが困難になっていることが、世界に誇っていた日本人の平均寿命(世界銀行の統計によると現在までは83才前後)を算出すのに大きな障害となっている。だから担当官たちは、今までに発表された日本での100才以上の長寿者の統計数字は、実際には遥かに少ないであろう、と告白している。


足立区役所、老人養護部のねもと・あきら部長は「この自然界では150才まで生きることは不可能です。でも、日本の公共管理の世界では不可能ではありません」と苦笑いしていた。

2010年8月16日月曜日

怪的な空の旅:異聞

空の旅の安全を確保するには様々な条件があります。その一つに、パイロットの技術的な資格や経験が挙げられています。さて、下に掲げた空港に、難なく離着陸して乗客の安全を図ることは、一重にパイロットの技術にかかっているのです。

あまり馴染みのない飛行場ですから、大多数の旅客には縁がないと思いますが、ご参考のために、、、。
写真提供:ジェィムス・ロッジ(James A. Lodge)

1. マレーシア半島沿岸沖、ティオマン島(Tioman Island, off the coast of Malaysia)

2. 西南太平洋、ウェーキ島(Wake Island, Pacific Ocean)

3. マカオ国際空港(Macao International Airport)

4. カナダ、ケベック、クージュアラァピック空港(Kuujjuaraapik, Quebec)

5. (おまけに)アフガニスタン駐在の米軍救助隊のヘリコプター。この限られた着陸地点で、敵の砲火を避けながら、限られた時間内に負傷兵を収容して飛び立たねばならない。

2010年8月12日木曜日

誰を責める; 原爆投下






高橋 経(たかはし きょう)
イラストも
2010年8月15日;65年目の敗戦記念日にあたり、、、



敗戦以来、毎年この時期になると必ずと言ってよいほど、昭和20年8月6日の広島、8月9日の長崎へ投下された原爆についての評論が、日米ともにマスコミの片隅に現れる。

8月6日付けの朝日新聞の天声人語子はその評論の中で[、、、米国のオバマ大統領は去年、核を使用した自国の道義的責任を語り「核なき世界」を訴えた。それを機に、涸(か)れて いた核軍縮の泉がわき出し、川となって流れ始めた▼さらなる水流となるのだろうか、広島での平和記念式にルース駐日米大使が出席する。65年を経て初めての大使出席になる。とはいえ米国では今なお、原爆投下を正当化する考えが常識だ。、、、]と、暗にトルーマン大統領以下、歴代のアメリカの為政者を非難していた。


同日、毎日新聞の余録子はその評論の中で、戦後15年以上経った1960年代に企画されたドキュメンタリー映画製作に当たって、作家の マール・ミラーが原爆投下を決定したトルーマン大統領をインタビューにかつぎ出そうとした経緯を紹介している。[トルーマン元大統領は神経質そうにまばたきし、しばらく沈黙した後「お望みなら日本に行こう。けど、やつらにおべんちゃらをいうつもりはないからね」(R・タカキ著『アメ リカはなぜ日本に原爆を投下したのか』草思社)▲汚い言葉*での感情的反発は、いつも原爆問題で身構えていた彼の動揺を示した。内輪では子供らの犠牲への心痛を語ったトルーマンだが、公には原爆投下は戦争終結のためで、少しも後悔していないと繰り返していた。国家や大統領は過ちをなしえないというわけだ▲今なお原爆投下の肯定論が世論の6割を占める米国である。、、、]

率直な所、私は上記の評論を読んで筆者たちのアメリカに対する偏見を感じた。*特にトルーマン大統領の答えにあった[them]を『彼らに』とせず『やつらに』とし、[flattering]を『外交辞令』とせず『おべんちゃら』など、故意に『汚い言葉』を使った翻訳を紹介しているのが気に障った。

お断りしておくが、私はアメリカを弁護する気持ちは毛頭ないし、筆者たちの評論が間違っていると指摘する根拠も持っていない。しかし、群盲が象を探った比喩と同じで、断片的な事実だけを取り上げ、アメリカ人を類型化し、軽卒に評価する過ちは避けてもらいたい、と主張したいのである。


私は今日まで在米47年、ケネディ大統領の暗殺事件に始まり、キング師やロバート・ケネディ上院議員らの暗殺、ベトナム戦争中から今日のイラク、アフガニスタン侵攻を通じての反戦運動、平和運動、の数々を見聞してきた。そうした動きと並行し、戦争を憎み、平和を望み、原爆投下を恥じているアメリカ人が年々増加し、毎年8月6日には各地で各種の『ヒロシマを悼む集会』が民間団体や宗教団体によって開かれ、日本人並みに千羽鶴を折り続けているアメリカ人が大勢いることも知っている。天声人語、余録の双方ともに「原爆投下の肯定論が世論の常識で6割を占める米国」という断定的な評価をしているが、片手落ちの偏見という誹りは免れまい。


一方、アメリカの新聞や雑誌にも原爆投下を反省する評論が毎年のように掲載され続けてきた。それらの論調を総合すると「1945年当時には、日本は戦いを続けるだけの戦力を失っていた。軍艦も飛行機も失い、日本軍隊の兵隊は大半が戦死し、日本の都市は殆んどが空襲で破壊され、国民は生活に必要な食料や必需品の欠乏に苦しみ、ただ生きるのが精一杯で戦意を失っていた。だから原爆を使わなくても、遅かれ早かれ降伏せざるを得ない状態だった」という論理が骨子となっている。

これはうなずける常識の上に成り立った理論だが、常識で割り切れない信条が存在していたことには全く気付いていなかったようだ。


では原爆投下の責任の所在はどこにあったのであろうか?結論を急ぐ前に、
昭和20年(1945)、日米戦争の終盤にあった戦局を駆け足で回顧してみよう。

■ 7月15日:ニューメキシコ州アラモゴードで初の原爆実験が成功。


■ 7月17日:ドイツ、ポツダム市で連合国の4首脳:(上は左から)スターリン書記長、蒋介石首席、トルーマン大統領、チャーチル首相と後任のアトリー、らの会談が始まった。

■ 7月26日:日本に対する無条件降伏の勧告『ポツダム宣言』が作成された。勧告書には「降伏しない場合には『強大な破壊』の用意がある」と原爆投下を警告していた。


■ 7月27日:大本営は『ポツダム宣言』を受領。降伏勧告を受諾するかどうかが検討された。東郷茂徳外相が「降伏する絶好のチャンス」としたが、阿南惟幾陸相(右下)は『本土決戦』を主張、鈴木貫太郎首相(左)は『宣言』に回答する決心がつかず『黙殺』してしまった。

■ 7月27日:アメリカの参謀本部で、日本への最終的攻撃は『九州侵攻』か『原爆投下』かで意見が真っ二つに分かれた。ウイリアム・リーハイ長官とアイゼンハワー元帥は『原爆投下』に反対。片やトルーマン大統領は先年のノルマンディ侵攻の経験から予測し『九州侵攻』で起こり得る60万から100万人に及ぶ人的損害を避けるため『原爆投下』に傾く。


■ 一方、日本では『本土決戦』に備え、小中学生、女生徒まで含め、竹槍で防戦する訓練を受けたいた。

■ 7月27日以降、8月2日まで、アメリカの爆撃機が日夜、日本の大小都市を空爆し続けた。

■ 8月3日:天皇裕仁は陸軍士官学校の卒業式で「勇気をもって勝利を、、、」と檄をとばした。

■ 天皇は降伏を避けるため、不可侵条約を交わしていたソ連(ロシア)の仲裁を当てにしていたが、何の回答もなかった。

■ 8月6日:世界初の原子爆弾が広島に投下され、一瞬にして12万人の市民が焼死し、3万人が不治の重軽傷を負った。(その年末までに死者は20万人に膨らんだ。)阿南陸相
(上右)は「原爆の2発目を作るにはあと半年かかる」と多寡をくくり、『本土決戦』を主張し続けていた。

■ 8月8日:天皇が『仲裁』を頼りにしていたソ連が不可侵条約を破棄して日本に宣戦を布告した。


■ 8月9日:2発目の原爆が長崎に投下され、3万5千人が焼死。(その年末までに被爆被害者は7万4千人に膨らんだ。)


■ 8月10日:大本営は『無条件降伏』でなく『条件付き』の受諾をワシントンに通達。米国側は受領は確認したが『条件付き』の項に触れるのは避けた。


■ 8月11日から14日まで、大本営では夜を徹して『無条件』を呑むか呑まないかでもめていた。


■ 8月15日:天皇裕仁の
遅過ぎたきらいのある決断で、録音『敗戦の詔勅』がラジオを通じて全国に放送された。『詔勅』文には『敗戦』または『降伏』という言葉は見当たらない。

以上、日本が国家の運命を左右した重大な20日間である。ご注目いただきたいのは『ポツダム宣言』の降伏勧告を受領した7月27日から、広島へ原爆投下の8月6日まで10日も猶予があった点である。


前掲、アメリカの評論家は「、、、原爆を使わなくても、遅かれ早かれ降伏せざるを得ない状態」にあった日本、と常識で分析して『原爆不要論』を主張していたが、日本の戦争指導者が『本土決戦』に固執し、最後の一人が殺されるまで戦うことを国民に強制し、『降伏』を拒否していたいたことには気が付いていなかったようだ。


話が昭和16年に遡るが、武士道の作法に、寝ている敵を殺す時は、相手の枕を蹴飛ばし、起してから刺す、という教えがあった。真珠湾攻撃を計画した山本五十六司令長官はそれに習い、攻撃の直前に宣戦布告書をワシントンに渡す
手筈だったが手違いで遅れた。それを知った司令長官は烈火の如く怒ったと伝えられているが、仮に計画通りのタイミングで宣戦布告状をワシントン政府に手渡していたとしても、真珠湾の急襲が正当さを欠いていたことは否めない。

それに反して、原爆投下は少なくとも10日も前に予告されていたのだ。『ポツダム宣言』を受領してから広島の被爆まで10日間、ソ連から宣戦を布告されるまで12日間、長崎の被爆まで13日間、大本営は何ら対策を講ずることもなく非生産的な評定で時を徒らに過ごしていたのである。もし(仮説で歴史を覆すことはできないが、、、)、東郷外相の提案
『降伏する絶好のチャンス』を採択していたら、原爆投下やその他大小都市の破壊は避けられていたのだ。

あくまでも『本土決戦』に固執し、小中学生まで巻き添えにし、自国民の最後の一人が殺されるまで戦うと言い張っていた戦争指導者の狂気な頑迷さを知った時、私は(戦後何年も経ってから)大江健三郎や広島の生存者が感じた、あの『激しい怒り』がこみ上げてきた。そしてそれが原爆投下を正当化する口実にもなり得たことについて、良識ある新聞人たちが全く触れていないのに不満を感じたのは私だけであろうか。

最後にもう一言。トルーマン大統領は『九州侵攻』で60万から100万人の人的損害が予測されるとして『原爆投下』を選んだ。その人的損害の数はアメリカ兵だけだから、防戦する側の日本国民-----軍人ばかりでなく竹槍を持たされた未成年者も含め-----の人的損害を加算せねばならない。

もしアメリカが『九州侵攻』を選び実行していたら、世間知らずで戦争指導者を信じ切っていた16才の私自身も、勝ち目のない『本土決戦』で無駄死にしていたに違いない。

(右上の人々は戦争犯罪人として起訴された戦争指導者たち。内、東条英機以下7人が絞首刑になり、上記の阿南陸相は敗戦放送直後に自刃し果てた。)

2010年8月11日水曜日

広島:怒りの文学へ

大江 健三郎(おおえ けんざぶろう)
2010年8月5日付け、NYTに掲載、全文

東京発: 沖縄、普天間のアメリカ海兵隊飛行場基地は、東アジア最大の米基地の一つで、人口が密集した市街の中心地に設置されている。日米の政府はその危険性を15年前から認知しながら移動させる気配は全く見当たらない。(右は、筆者大江健三郎)

2009年に就任した鳩山由起夫首相は、沖縄市民から嫌悪されていた基地を移動すると公約しながら、その要望を棚上げにしたまま期待に反して実行できないまま失脚した。その後継となった管直人首相は、日米安全保証条約を尊重すると表明し-----それと米軍が日本に駐在するという基地問題とは直接の関わりはなく、その立場は時の風向きに依存しているようだ。


最近の報道によると、政府閣僚は、日本で核兵器を製造、所有し、または使用して『限定した条件でアメリカを援護する』ことは賢明ではないとし、核兵器を運搬する際、日本の領土を通過させることによって、いわゆる核兵器傘下の事情を向上させるという『非核兵器3原則』案に関する提案を含んだ方針書を管首相に提出する事になっているそうだ。


私がその記事を先週読んだ時、限りない怒りを覚えた。(その言葉が私にとって重要性を持つ理由については後段で説明する。)今年、同様な激怒に襲われた他のニュースがあった。それは過去何十年もの間に亘る沖縄問題に関連し『非核兵器3原則』の3番目である「核兵器を日本へ持ち込む(通過も含め)ことを禁止する」という原則に違反する密約が日米間で交わされていた、という記事を読んだ時である。


原爆が落とされてから今年で65周年目を迎え、年中行事である広島平和記念祭で、イギリス、フランス、アメリカの代表達が初めて出席することになった。これは民間の行事でありながら政府の指導者たちが演説をするが、同時に、被爆者や生存者たちが近親の犠牲者を追悼するという個人的に重要な意義もある。近代日本で過去200年来、全ての公的な行事の内で、平和の祭典は道徳上、最も真摯(しんし)に執り行われるべき行事である。

私はここで『道徳上、真摯に』という表現を、オバマ大統領が2009年4月、プラハで行った演説から意図的に引用して使った。大統領は「原子力を核兵器として応用するとしたら、アメリカはその行動に道徳上の責任がある」と言っていた。大統領の呼びかけには、特定の強大な国家が無制限に核兵器を所有してしまう以前に、効果的な核武装禁止行動を起さない限り、核兵器の生産を促すという新たな危機の発生が感じられる。


オバマ大統領のプラハでの演説は、2007年のウオール・ストリート・ジャーナル紙(the Wall Street Journal)に掲載された評論『核兵器のない世界(A World Free of Nuclear Weapons)』でジョージ・シャルツ(George Shultz)、ウイリアム・ペリー(William Perry)、ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)、サム・ナン(Sam Nunn)等の発言を反映していた。彼らは「多数の国々が他国からの脅威に対して、(核兵器製造を)不能にするよう適切な対策を講じ続けねばならない。しかしながら、その脅威を妨げるために核兵器に依存するという考えは著しく危険であり、むしろ効果がない」としていた。


非核武装の意識は、アメリカやヨーロッパで広がり始めているようだ。事実、日米仏の代表たちが平和の祭典に出席したことは、非核武装世界へ僅かながら第一歩を踏み出した象徴として映るであろう。しかしながら、現在の状況を展望する限り、日本(政府)は一向に国内の米軍基地を移動させる具体案を持っていないようだ。それどころか、我々は、アメリカの保護に依存する代償として、核兵器が日本へ持ち込まれたり通過するのを許容黙認する可能性が強い。


国連の安全保障委員会の会議で、退陣前の鳩山首相は、オバマがプラハ演説で言及した「日本も道義上の責任がある、、、」に対して「唯一の被爆国であるから」と応えていた。

しかし、こうした非核武装案への美辞麗句に対して、一体どのような行動が計画され用意されているのだろうか?もし管首相がオバマ大統領の演説について考える余裕があったとしたなら、何と解釈しただろうか?もし彼が祭典で演説するとしたら、核兵器が日本へ持ち込まれたり通過するのを容認する閣僚の一人として、適切な発言をする言葉の用意は持ち合わせていないのではなかろうか。


でももし彼が発言するとして、オバマの側である諸外国の代表たちは、どう受け止めるであろうか?そして平和会場に占める被爆者たちがどのように感じるであろうか?世界で唯一の被爆国国民として、核兵器傘下の保護の元で生きることが道義上の責任であり、自由を獲得するために傘下にあることを放棄したがるのは、責任を放棄するという反抗的な行為だと非難されたら、被爆者たちは激怒するのではなかろうか?


私も考えさせられる-----今や前首相が当初バラ色の公約をした普天間基地を沖縄の辺野古村へ移動させる筈だった計画が有耶無耶に消滅してしまったことを-----2千日以上も座り込んで抗議していた村の老人男女達が、度々変更される政府の方針をどう受け止めたであろうか。


65年前、昭和20年8月、(私の母の)友人の一人が広島で被災した後行方不明とされていたが、現地の病院に収容されていたのが判り、四国の家にいた母は、ささやかな援護の品々をまとめて見舞いに出掛けた。母はその旅から帰宅してから、その友人の模様を話してくれた。


それによると母の友人は、原爆が投下される直前に、真夏の焼けるような太陽を避けるためレンガ塀の陰で凉を求めていた。その日陰から彼女(友人)は遊んでいた二人の子供たちを眺めていた。その時原爆が炸裂し、彼女の目の前でその子供たちが蒸発してしまった。彼女は「私はただただ怒りがこみ上げて、、、」と母に語りながら涙ぐんでいた、ということだ。


私はその話を聞いた時点で、その実態を明確に把握していなかったにも拘らず、その恐怖に満ちた話を聞きながら(彼女の「怒りが、、、」という言葉と共に、すっかり私の胸にずっしりと重く心の底に根を下ろしてしまった)、作家になって書き残さねばならぬ、と痛感したのであった。その思いがずっと脳裏に去来していながら、その後今日までの50数年『核時代』と呼ばれる世界に生き、私は一向に、原爆を体験した人々を叙述する筈の『一大文学』を書き上げることができなかった。今こそ私は、その文学を書き上げることだけが、私自身に与えられた使命であると考えている。


イドワルド・ワディ・サイード(アラビア読み:Edward Wadie Said*下段の註を参照)の最新の書『熟年の文体について(On Late Style:2006年版)』の中で、彼は数々の芸術家たち(作曲家、音楽家、詩人、小説家)の例を挙げ、彼らの作品が年令を重ねる毎に、奇妙な形で緊迫感が集約され、破滅の縁の上を彷徨い、そして彼らが晩年になるとその緊迫感を利用して、その年代なりに、彼らの世界、彼らの社会、彼ら自身を表現するようになった、と分析している。

先週の或る日、私が核兵器傘下のイデオロギーが復活していると知った時、人気(ひとけ)のない深夜、私は書斎で独り坐り、自分自身を見直していた、、、私が見たものは年老いた、無力な人間、激しい怒りの重みの下で身動きもせず、まるでそうしていること自体が(何もしないでいた間が)文学の形式(文体)そのものでもあるかのように、ただ奇妙に集約された緊迫の気配を感じていた。


そして、その老いた日本人の男が、多分そこに独りで坐って黙々と抗議していること自体が、彼の『晩年の作品』になることであろう。
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*イドワルド・ワディ・サイード(アラビア読み:Edward Wadie Said:1935年11月1日生まれ〜2003年9月25日死亡):エルサレム生まれ、パレスチナ/アメリカ文学の理論家で、パレスチナの人権擁護活動家でもあった。


[お断り:以上は、筆者の日本語で書いた評論が英語に翻訳され、それを再び日本語に訳し直したものです。当然原文と違う表現が随所にあると思いますが、筆者の意図は充分に掴むことはできたと確信しております。編集責任:高橋 経]

2010年8月9日月曜日

追悼:パトリシア・ニールの浮沈

アル・ジーン・ハーメッツ(Al Jean Harmetz)
2010年8月9日付け、NYTの記事から

ケンタッキー州の一炭坑町で生まれ育ったパトリシア・ニール(Patricia Neal)は、長じてハリウッドの映画やブロードウエィの舞台に立つ女優としてアカデミー賞やトニー賞を受賞し、輝かしい名声を挙げた。そうした華やかな栄光の影で、その私生活は悲劇的な浮沈に揺さぶられていた。そのパトリシアが、昨日曜日(8月8日)、マサチューセッツ州エドガータウン(Edgartown, Mass.)、マーサのブドウ園(Martha’s Vineyard)内の自宅で84才の生涯を終えた。直接の死因は肺ガンだった。


編集から:パトリシア・ニールの生涯に関する長文の叙述は省略し、映画ファンの記憶に残るアルバムのハイライトだけご紹介する。いずれも共同通信(Mark Humphrey/Associated Press)提供によるスティル写真。


1949年に公開された『摩天楼(The Fountainhead)』で、当時48才、絶頂期にあったゲィリー・クーパー(Gary Cooper)の相手役として23才のパトリシア・ニールが抜擢された。二人は撮影中から激しい恋に陥り、その関係は3年も続いたが、結果としてクーパーが妻子の元に戻り、終わりを告げた。

同映画の一場面。パトリシアの役柄は数々の候補者を退けた激しい競り合いの結果だった。その割には、興行的に成功しなかった。(編集註:日本ではアメリカ公開の直後に封切られ、大評判だった。なお、原作者のアイン・ランド(Ayn Rand)の本はベストセラーで、60年後の今でも市場に出回っている。)

パトリシア・ニールとリチャード・トッド(Richard Todd)共演の『軽卒な心(The Hasty Heart)』。『摩天楼』と同年、1949年公開。

1961年のヒット、オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn:中央)、ジョージ・ペパード(George Peppard:左)共演の『ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's)』で助演したパトリシア。

1964年、ポール・ニューマン(Paul Newman)と『ハド(Hud)』に出演し、粗野なカーボーイの男所帯で気丈な家政婦を演じ、アカデミー賞、トニー賞を受賞したパトリシアだったが、スクリーンでは観客の人気をさらったニューマンの魅力の陰に抑えられていた。その1年後、卒中を3度も経験し、3週間にわたり昏睡状態に陥った。

回復後、記憶力が弱くなり台詞を覚えるのが難しくなったが、1968年、フランク・ギルロイ(Frank Gilroy)作の舞台劇『バラが主題だった(The Subject Was Roses)』の映画版で帰り咲いた。その演技が買われてアカデミー賞の最優秀女優賞の候補となった。写真は夫ロナルド・ダール(Ronald Dahl)と授賞式に入場する所。

1999年の映画『クッキーの幸運(Cookie's Fortune)』に出演したパトリシア。

2005年『ハリウッド通りに舗装された有名人の星(a star on the Hollywood Walk of Fame)』賞牌を受けた。

2008年、晩年のパトリシア・ニールは、脳障害の児童や成年を救う基金集めに、その余生を捧げ尽くした。

編集からお願い:上記、日本語に翻訳した映画の題名が、日本で公開された題名と違っていた場合はお知らせください。

2010年8月6日金曜日

敗戦、貧困、ララ物資:下

はじめに
前2回の挿話では、普連土学園の大津光男財務理事から、敗戦後日本人の大半が体験した貧困生活と海外の救護団体の救援活動をお伝えいたしました。
それに引き続き、ハーバート・ニコルソンの善意『ヤギのおじさん』に焦点を当てて完結といたします。戦中派はもちろんですが、特に戦後に生まれた方々に知っていただきたい『風化させられない』日本人の悲惨な日々の一端と、それを救ってくれた善意の逸話です。編集;高橋経記;イラストも


大津 光男(おおつ みつお)


6. 山羊のおじさん

太平洋戦争中、アメリカ在住の日系人を助けるためにAFSCを辞め『トラックを運転する宣教師』として強制収容所に荷物を運んでいたハーバート・ニコルソン(Harbert Nicholson)は、ブレスレン奉仕委員会(Brethren Service Committee)が設定した同教会の後援によるヘイファー救援プロジェクト(Heifers for Relief Project Organization, sponsored by the Church of the Brethren)に加わり、その責任者になった。当然その仕事はボランティアであり無給であった。

ヘイファーの救援プロジェクトは、未産の雌牛を送るのが常だったが、日本には山羊を送ることにした。ヘイファーの名は、ララの連名には現れていない。しかし、山羊を送ることによってハーバート・ニコルソンは、ララの活動の記録では、いつも「やぎのおじさん」として紹介されている。ハーバート・ニコルソンは、長男サムエル(Samuel)の作ったスライドを用いてプロジェクトを紹介しながら米国内で募金し、200頭の仔山羊を購入することができた。


昭和22年(1947)10月サンフランシスコを出港したハーバートとサムエル・ニコルソン親子、クエーカーのテッド・ロバーツ(Ted Roberts)、ポール・マッククラッケン(Paul McCracken)等の一行は、貧弱な小型輸送船サイモン・ベンソン号(Simon Benson)の後甲板に設けられた山羊小屋と共に、太平洋の荒波を超え沖縄に着いた。那覇港には沈没船が多く、町も沖縄戦で破壊されていた。沖縄戦では昭和20年(1945)7月2日の米軍沖縄作戦終了宣言までに多くの犠牲者を出していた。集団自決に追い詰められたり、スパイ容疑をかけられて日本軍に殺されたりする島民もあり、12万人余が戦火に斃れ、壊滅的な打撃を受けていた。

終戦の後2年を経ても惨状はそのまま残っていた。そうした状態の中で、早速山羊小屋が作られ、当地のララの責任者エベレット・トンプソン(Everett Thompson)により、軍司令部の司令官クレイグ大佐(Colonel Craig)を紹介された一行は、滞在施設として将校宿舎があてがわれた。


ハーバート・ニコルソンは沖縄滞在中、島民に日本語で説教してもよいかどうかをクレイグ大佐に尋ねたところ、クエーカーに改宗させない限り説教しても差し支えない、という許可を得た。

その結果、山羊をつれて、軍政府農場、名護の病院、ハンセン病療養施設沖縄愛楽園、少年刑務所、その他多くの集落を訪ねる度に、罪もない沖縄の人々を苦しめることになった自分たちアメリカ人を赦して欲しいと謝罪し、アメリカのもたらした戦争による悲惨さを詫びたのだった。

筆者は本稿を書くに当り、息子のサムエル・ニコルソンに何度か電話で確かめた。彼の話では、沖縄訪問で6週間、宣教師のいない地域を回りながら、説教することよりも、戦争の贖罪として山羊を携え、沖縄の人々に詫びていた父ハーバート・ニコルソンの姿を是非記録に留めておいて欲しい、とのことであった。(左の写真はニコルソン一家:前列右から、ハーバート、妻マデリン、長女ヴァージニア、後列右はサムエル、左は次男のドナルド)

ハーバート・ニコルソンの沖縄への初航海は、軍の輸送船に乗ってアメリカへ戻ることによって終った。沖縄からアメリカに戻ったニコルソンは、再び山羊を買い求めた。今度は念願の日本本土への旅であった。
 

昭和23年(1948)5月、250頭の山羊をフライング・スカッド号(Flying Scud)に積み込んで出帆した。横浜入港を控えた晩、ハーバート・ニコルソンは、山羊の産室で逆子の仔山羊が産まれる報せを受け、直ちにその場に出向き、母山羊から足を引きずり出した。母山羊は、婦人クリスチャン禁酒団体(Women’s Christian Temperance Union)から贈られた山羊だったのでテンペランス(禁酒)と名付けられていた。ニコルソンは、新たに生まれた仔山羊の名前を、自分の長女バージニアの日本名と同じキヨコ(清子)と名づけた。こうして、横浜港に着くまでには、船内で合計15頭の仔山羊が生まれ、総数は265頭に増えていた。
 

横浜に着くと、検疫所で歓迎会が開催された。この歓迎会でハーバート・ニコルソンは、4頭の仔山羊を育てた日系人サトミ・ヤスイの話をした。すると、その場に居合わせた農林次官からこの話をNHKのラジオで全国放送をしてみてはどうか、と勧められたのである。ところが、ニコルソンがNHKに出かけて問い合わせてみると、ラジオに子供の時間帯を設けるには6ヶ月を要するとのことだった。当時、まだテレビはなかった。


一方、ハーバート・ニコルソンのその話を少し脚色し、子供の雑誌記事とすることも決まった。けれども、最終的には、物語は時間や場所、人物も脚色されて『二世の少女サトミ・ヤスイ』は、父親が太平洋戦争で戦死した『ハリーという少年』に変えられた。そして、下記、小学校五年生の教科書に載せられることになった。こうしてハーバート・ニコルソンは『やぎのおじさん』として日本全国に知られるようになった。そして、カメラマンのディック・クラーク(Dick Clark)、腹話術師のアル・ブロワー(Al Blower)らと共に、山羊を連れながら全国を行脚
することになった。

普連土学園を訪問したのはもちろんのこと、ある時は、御殿場にあった秩父宮殿下の別荘で、また、ある時には皇太子明仁(現天皇)の家庭教師をしていたエリザベス・グレイ・バイニング(Elizabeth Gray Vining:左のイラスト)の招きにより学習院を訪問して話をした。さらに、江ノ島の少年院その他全国を訪問して、多くの人たちを前に、沖縄での話と同様に、戦争でアメリカが犯した罪を許して欲しいと詫び、且つ祈った。この姿勢は生涯変わらなかった。

7. 1頭のやぎ

昭和28年1953に学校図書で発刊された小学校五年生の『国語・上』教科書には、次の文が載せられた。

ニコルソンさんは、日本で教会の牧師をしていました。

動物がたいへんすきで、やぎをかっていました。近所に病人があったり、ちちのたりないあかちゃんがあったりすると、ニコルソンさんはさっそくやぎのちちをしぼって「どうぞ、これを飲ませてください」と言って、持っていってあげるのでした。ですから近所の人たちはみんな、ニコルソンさんのことを「やぎのおじさん」とよんでいました。

ところが、昭和16年に、太平洋戦争がおこりました。ニコルソンさんは、すきな日本にいることができなくなってしまいました。しかたなしに、30年も住みなれた日本の土地と、たくさんの日本人の友だちに別れをつげてアメリカへ帰っていきました。日本をひきあげたニコルソンさんは、カリフォルニア州のコロラド川のほとりで果樹園を経営して、メロンや夏みかんを作ることになりました。また、日本での生活を思いだして、ここでもやぎをかいました。

長かった戦争もやっと終わりました。久しい間、世界の人々が心から望んでいた平和が、ふたたびおとずれてきました。けれども、勝った国も、負けた国も、物資がたりなくなってしまいました。とりわけ、負けた国は損害も大きく、国民の苦しみようはたいへんなものでした。そこで、そういう国の人々を、1日も早く助けようという運動がおこり、アメリカにその本部ができました。少しでもゆとりのある人から衣類や食料を出してもらって、きのどくな外国の人々に送ってあげ、戦争ですさんだ心をなぐさめてあげようというのです。ニコルソンさんもその委員に選ばれました。


日本へは、学校給食の材料を送ろうとか、いろいろの相談が始まりました。

ニコルソンさんは「そうだ。日本にいる時、わたしはやぎのおじさんといわれたのだ。ひとつ、日本のこどもたちにやぎを送ってあげよう。おいしいちちをのんで、こどもたちはじょうぶに育つだろう」と考えました。


ニコルソンさんは、やぎを買うお金を集めるために、方々をまわって歩きました。お金を集めるだけのことならば、お金持ちから寄付してもらう方がたやすいことだったかもしれません。けれども、日本の少年少女へやぎを送ってあげるのには、同じぐらいのこどもから集めたお金で買いもとめた方が、どれほどとうとくもあり、またおたがいのまごころが通ずることだろうか。そう思ったニコルソンさんは、アメリカ各地をまわって「日本のこどもへやぎを送りましょう。こどもたちのこずかいの中から、ほんの少しでも出しあって、やぎを送ってあげましょう」と説いて歩きました。


その日も、ニコルソンさんは、コロラド川をずっと山おくへさかのぼって、あちこちの学校をたずねました。


「日本のこどもたちへやぎを送ってあげましょう」


ニコルソンさんは、ねっしんに説いてまわりました。そして、また、つぎの村へと急ぎました。ところが、いつのまにか、空はどんよりくもり、夕日もしずんでしまいました。めざすイーストン村まではまだ遠いのです。

「どこか、この辺でひとばんとめてくれる所はないかしら」
こう思って、1けんのみすぼらしい農家をたずねました。

その家には、おかあさんと3人のこどもがいました。上の子はハリーといって12才ですが、足が悪いとのことです。つぎがジョンで9才、いちばん下のかわいい女の子はメリーといって、5才でした。おとうさんはこんどの戦争で戦死してしまい、今ではおかあさんの手一つで、小さな果樹園を経営して、まずしいくらしをしているのでした。


それを聞いて、ニコルソンさんはすっかり同情してしまいました。カバンの中から、いろいろなおかしを出して、こどもたちに分けてあげました。すると、いちばん上のハリーが
「おじさんはイーストンへ行くの」とたずねました。ニコルソンさんは「うん、ちょっと、あそこの学校に用事があってね」

「では、おじさんは先生ですか。」「いや、学校の先生じゃない。わたしは長い間日本に住んでいたのだが、じつはこんど、、、」と、日本の友だちへやぎを送ること、やぎを買うお金を、アメリカのこどもたちから集めていること、そのために、イーストンの学校へ寄付のお願いにいくとちゅうであることなどを話しました。


3人のこどもたちは、じっとニコルソンさんの顔を見上げて聞いていましたが、やがて、ハリーは洋服の内ポケットから何かくちゃくちゃになった小さな紙包みをとりだしました。その中には、1ドルの銀貨がはいっていたのです。 「おじさん、これはたんじょう日のお祝いに、おかあさんからいただいたのです。本でも買おうと思って、たいせつにしまっておいたのですけれど、どうか、やぎを買うお金に使ってください。そして、日本の友だちに、1頭でも多く、やぎを送ってあげて下さい。」

それに続いて、ジョンもメリーも、だいじにしていた1ドルの銀貨をもちだしました。なみだが、ニコルソンさんのほおを伝わって流れました。


「いいんだよ。おじさんには、もう、たくさんのお金が集まっているんだから、そのお金は、さ、しまっておきなさい」


けれども、ハリーたちは「このお金もぜひ使ってください」と言って、どうしてもききいれません。ニコルソンさんはこまってしまって「それでは、この3ドルはありがたくいただくことにしよう」と、いったんそれを受け取りました。そうして、自分のさいふから2ドルのお金を出して、それに加えました。

「さあ、これで5ドルになるね。5ドルあれば、子やぎが1頭買える。だから、お母さんに買っていただいて、大きく育ててごらん。そうしたら、おじさんは、ほかのやぎといっしょにして、日本へ送ってあげるから」


ニコルソンさんはこう言って、ハリーたちに5ドルのお金をわたしました。その夜は、ハリーたちの家にとめてもらい、あくる朝早く、こどもたちとなごりをおしみながら、ニコルソンさんはイーストン村へたっていきました。おかあさんは、そのすぐあと、町へ出て、めすの子やぎを1頭買ってきました。3人のこどもは、なかよしの家族がひとりふえたので、たいへんな喜びようです。ジョンとメリーは、毎日、草をかってきて、食べさせました。

夏が去り、秋も過ぎて、やがて新しい春を迎えました。ある日のこと、ニコルソンさんのところへ1通の手紙が届きました。

[おじさんがわたしの家へとまられてから、もう1年以上にもなります。おじさんに買っていただいた1頭の子やぎも、いまではりっぱなおかあさんやぎになって、こどもを4頭もうみました。やぎのせわは、ぼくとジョンとメリーでしています。ぼくは毎日、やぎのちちを飲んでいます。おかげで、悪かった足がとてもじょうぶになって、このごろはひとりで歩けるようになりました。それから新聞で見ましたが、方々の学校から集めたお金で買ったやぎが、もう2回も日本へ送られたということですね。この次送る時には、ぜひ、ぼくたちのやぎも連れていってください。そして、日本のお友だちに、やぎのちちを少しでも多く飲ませてあげてください。お願いします。

ハリーより
ニコルソン様 ]

ニコルソンさんはいく度もいく度もこの手紙を読んでいるうちに、むねいっぱいにこみあげてくる喜びを感じました。


ニコルソンさんはハリーたちに会いたくなりました。さっそく自動車をとばして、遠いハリーの家をたずねていきました。ニコルソンさんをむかえたハリーたちの喜びはどんなだったでしょう。自分たちがいっしょうけんめいに育てた親子のやぎを、ニコルソンさんの前にひっぱってきて見せました。ニコルソンさんは、ハリーたちに「こんど送る時には、きっときみたちのやぎも送ってあげよう」とやくそくして、ハリーたちをいっそう喜ばせました。


昭和24年の1月16日、250頭のやぎが、はるばる海をこえて横浜に着きました。にぎやかなやぎの伝達式が行われました。その時、同じ船に乗ってやぎを送ってきたニコルソンさんは、ハリーの手紙を声たかだかと読みあげました。

日本のお友だちのみなさん、どうかぼくに代わって、このやぎをりっぱに育ててください。アメリカのぼくたちと、日本のみなさんと、このやぎをとおして、ほんとうのなかよしになりましょう。これらのやぎは、日本中のこ児院へ分けられました。今ごろは、両親を失ったこどもたちにおいしいちちをあげたり、いい遊び相手となってかわいがられているでしょう。

8. 敗戦後の生活
 

広島に原子爆弾が投下される4日前の8月2日未明、水戸市にあった我が家は空爆で灰となった。その少し前、何度も防空壕にかけ込まざるを得なかった身重の亡母は、男の双子を早産したが死産に近く、実家に戻っていて被災を免れた。子供の命と引き替えに自分の命の助かった辛い苦しい思い出は、晩年はすっかり忘却の彼方にあった。彼女の頭にかすかに残っていたのは、亡父が傷痍軍人であったため敗戦後、水戸市で焼け残った弘道館の僅か6畳の小さな番屋に、県営住宅が建てられるまで幸運にも住むことのできた短い期間だけだった。

現在弘道館は史跡となり、この番屋はそのチケット売り場になって存在している。が、弘道館の歴史上そこに住んだのは我が家だけだった。しかし、記録は何も残されていない。私の学んだ小学校も戦災で焼失し、一時は弘道館を仮校舎としたこともあった。


そのような時期に、弘道館の番屋前の僅かな斜面を耕して野菜を植え、山羊を飼って糊口をしのいだ。それが、自分の年令さえ忘れた亡母の唯一の記憶だった。当時、水戸市民の多くもララ物資の恩恵に預かれたことは幸いだった。

私は、毎年終戦記念日の来る度に、戦争が終わった敗戦後の生活を思い出さずにはおられない。それは、ララによって助けられた日々のことである。

完

敗戦、貧困、ララ物資:中

はじめに
引き続き普連土学園の大津光男財務理事から、前回の挿話を受け、敗戦後日本人の大半が体験した貧困生活を、海外の救護団体によって救われた実情をお伝えします。『ララ物資』という言葉は、空腹を抱えていた当時に日本人にとって大きな福音の響きを持っていました。戦中派はもちろんですが、特に戦後に生まれた方々に知っていただきたい『風化させられない』日本人の悲惨な日々の一端です。編集;高橋経記
東京で罹災し雨露をしのぐ兄妹、、、両親の生死不明(昭和20年秋)

大津 光男
(おおつ みつお)


3. ララの構成


前記のような状況下、昭和21年(1946)6月、アメリカン海外事業運営篤志団(American Council of Voluntary Agents for Work Abroad)は、日本、朝鮮及び沖縄における救援事業を特に行うため、民間の特別委員会設置を決定した。同特別委員会をアジア救援公認団体(Licensed Agencies for Relief in Asia:LARA)と命名。その頭文字をとって『ララ(LARA)』と略称した。ララは民間組織とはいえ、アメリカ大統領の公認団体だった。

ララを構成していたのは:

  • アメリカン・フレンズ奉仕団、以下AFSCと略称(American Friends Service Committee)
  • 教会世界奉仕団、プロテスタント各派連合(Church World Service Committee)
  • カトリック戦時救済奉仕団(Catholic War Relief Service)
  • 救世軍(Salvation Army)
  • 男子キリスト教青年会、YMCA(Young Men’s Christian Association)
  • 女子キリスト教青年会、YWCA(Young Women’s Christian Association)
  • ブレズレン奉仕委員会(Brethren Service Committee)
  • ガール・スカウト(Girl Scouts)
  • ルーテル教会世界救済団(Lutheran World Relief)
  • ユニテリアン奉仕委員会(Unitarian Service Committee)
  • クリスチャン・サイエンス奉仕委員会(Christian Science Service Committee)
  • アメリカン労働総同盟(American Federation of Labor)
  • 産業別組合会議(Congregations of Industrial Organization)
だった。アメリカン労働総同盟と産業別組合会議の2団体は、これら13団体中ではキリスト教の団体ではなかったが、その構成員または家族が、他の宗教団体のいずれかに属している場合が多かった。その所属宗教団体を通じてララ活動に貢献する意味で、参加13団体に加入したといった方が適切かもしれない。だから、労働団体は直接的ではなく、間接的にこの活動に奉仕し貢献したのでその功績も大きかった。

こうして、アメリカ合衆国、カナダ、中米、南米の教会関係者、そして日系人達から食糧、衣類、医薬品類、日用品、学用品、さらに牛や山羊まで集められて日本へ贈られてきた。けれども、実際にはララのこの活動は、何時、誰が、どうして考えつき、働き始めたかを断定することができないところに、この活動がキリスト教の隣人愛に根差した、大きくより大衆的な精神的活動でもあった、とされている特長がある。『ララ記念誌』の25頁に「各地各国によって、多少の遅速や経緯の相違はあったろうが、大体において、終戦の年、即ち昭和20年(1945)の冬から翌年にかけて、故国難民救済の活動が始まり、それらはいずれも皆ララに合流して、莫大な物資がララ第1船以来、続々と日本に送り届けられた」とある。


4. 救済活動の準備


アメリカでの日本救援の気運がいよいよ熱し、物資輸送の手はずも整った頃、被災国日本における受入体制準備のため、AFSCのエスター・ローズ(Esther B. Rhoades、右の写真:戦前から普連土女学校勤務、戦後は普連土学園中学、高等学校校長<1949~1955>、理事長<1955~1960>、現在の天皇明仁が皇太子だった頃、家庭教師となったエリザベス・グレィ・ヴァイニング夫人[Elizabeth Gray Vining]の後任として皇室家庭教師兼務)、カトリックのマイケル・マキロップ神父(Michal J. Mackillop)と前記のジョージ・アーネスト・バット博士が、物資発送に先駆けて、ララの代表として来日した。昭和21年(1946)6月のことだった。

ララ代表は、その後、事業の途中、ヘンリー・フェルセッカー(
Henry J. Felsecker)がマキロップと交替し、バットは不幸にして59歳で、超多忙な活動により昭和27年(1952)3月急逝した。それは殉職というに等しく、夫人のエディス・バット(Edith E. Bott)がその後を継いだ。

その他、教会世界奉仕団のカール・クリーテ(Carl D. Kriete)、
AFSCのトーマス・E・フォークス(Thomas E. Forlks)、ハワード・テーラー(Howard J. Taylor)も臨時的にララ代表として活躍した(『ララ記念誌』59~60頁、同記念誌にハロルド・フェルセッカー及びハロルド・テーラーとあるのは誤記)。 これらの代表の中、ローズ、フォーク、テーラーの3名がAFSC関係者であり、フィラデルフィアのクエーカーだった。ハワード・テーラーは、昭和42年(1967)9月~昭和44年(1969)7月、普連土学園で英語を教えたキャサリン・テーラー・水野(Kathryn Taylor Mizuno)の祖父である。

一方、日本国内で直接社会事業に深い関心と経験をもち、国際事情に精通していたことにより、ララの代表に協力して企画運営に当たったのが中央委員であった。中央委員会が帯びていた任務は、救援物資の割当及び配分に関する一般方針の企画、立案、実施などであった。一般社会情勢、施設の実情を常に考慮し、必要な要求に即応できる輸送に関する具体案の作成、輸送物資の受領、記録、倉庫収納、そして配分に関しては厚生省との協力を緊密にとった。その他、ララ代表を通じて在米寄贈団体に報告書を提出し、在米寄贈団体に日本の困窮の実情、受領者からの謝意などを伝え、更に救護促進を依頼する、などを実施した。


当該中央委員32名中、澤田節蔵(さわだ せつぞう)と鮎澤巌(あゆざわ いわお)の2名が日本のクエーカーで、普連土学園と関係のあったことを銘記しておきたい。普連土学園が戦後学校法人となり、その初代理事長に就任したのが澤田節蔵、2代目がエスター・ローズ、3代目が鮎澤巌であったからである。このように普連土学園とララとはおそらく日本国内のどの学校よりもはるかに縁が深かった。

ミス・ローズやヴァイニング夫人の母校、フィラデルフィアのジャーマンタウン・フレンズ・スクール(German-Town Friends School)では、生徒が昼食を抜いて、その昼食代で日本への援助を行っていたからでもある。

5. 救済活動の実施

さて、昭和21年(1946)6月21日、マイケル・マキロップとエスター・ローズは、厚生省の葛西嘉資(かさい よしもと)社会局長室を訪れ、ララの基本構想を打ち明けた。その懇談の内容は、GHQのガリオア援助(Government and Relief in Occupied Areas:GARIOA)とは別に、戦後の困窮時、民間人によって送られた救援物資を「公平」に、「効果的」に、「迅速」に配分するための協力を求めた。(註:『クエーカーの足跡』葛西嘉資の『想い出集』では6月22日になっている)翌7月8日、バット、マキロップ、ローズの3代表とGHQ厚生課長ネフ大佐、救資軍デビッドソン准将(Lieutenant General Phillip Buford Davidson, Jr.)ら6名、日本側は厚生省の葛西嘉資社会局長ら14名が厚生省に集まった。そして、日本側の適当な受入態勢・配分先・今後送付を希望する品名等につき、一般的な討議を開始した。

その結果、8月30日、GHQから「ララ救援物資受領並びに配分に関する連合国軍最高司令官総司令部の日本帝国政府に対する覚書」(昭和21年(1946)8月30日SCAPIN-1169)が交付された。この覚書に対して厚生大臣は、9月20日付で「計量に関する計画、保管に関する計画、配分に関する計画、警備に関する計画」を回答、心構えを明らかにした(『ララ記念誌』56~58頁)。


同年11月30日午後5時、横浜港に到着したハワード・スタンドベリー号(Howard Standberry)に積み込まれた第一便の配分は、最も困窮していた乳児院、児童養護施設、結核、ハンセン氏病などの療養施設、老人ホーム、広島、長崎の被災者とされた。地域別では東京地区へ35%、大阪18%、横浜8%、名古屋8%、広島7.5%、京都6%、神戸6%、長崎2.5%、その他14%に配分された。(右は辛うじ走り出した東京の都電:昭和26年)

こうして、昭和21年(1946)12月から昭和27年(1952)3月まで足掛け7年間、当時の日本人の推定6分の1にあたる延べ1400万人が救援物資の恩恵を受けることになったのである。昭和22年(1947)にはララ物資が全県に配付されるようになり、秋ごろからララ物資の配付先が保育所、国立病院、療養所、学校給食にまで広がった。

ペニシリンなどの薬の配給は入院患者の死亡率を激減させたが、同年4月、茨城県下の小学校に入学していた私は、5年生の終わりまで、まるまるこの恩恵に浴していた。それは、学校給食時のコッペパンであったり、脱脂粉乳であったり、時には上着やズボンなどの衣類であったり、その他の日用雑貨品であったりした。

葛西嘉資は、厚生省の社会局長時代を回想して、ララについて「暖かい援助であった。ご存知のように社会施設に収容されている戦災孤児や一人ぼっちの老人などは、闇市で品物を調達する術が全くないので、もしあの時、ララの援助がなかったとしたら、と考えると、今でも肌に粟を生ずる思いである」と書いている(『一クエーカーの足跡』第2版166頁)。

昭和21年9月、ララの事務所が東京駅に近い「三菱中十三号館」に開設されたが、エスター・ローズが担当した
AFSCのララ物資配分場所となったのが、現在のフレンズ・センターだった。AFSCは、戦後日本支部の再設立に際して、拠点事務所を東京都港区のフレンズ・センターに設けたからである。ここは、幸運にも近隣住民の必死の消火活動により戦災を免れ、戦災で焼失した普連土学園の仮校舎として使われていたところだった。その3階が倉庫兼作業場とされた。

そして、例えば、衣類が送り先ごとに分類されて、サラリーマンには背広やネクタイなども提供された。その作業は夜を徹して行われたほど厳しい仕事であった。かつて、関東大震災の被災者に対して、基督友会奉仕団が行った救援活動のワーク・キャンプ、すなわち日本における実質的なワーク・キャンプの端緒となった深川公園においても、ララの物資が配給されていた。(左は東京新宿の焼け跡。道路を隔てて三越と伊勢丹のビルが焼け残った。昭和20年秋)

AFSCは、ララの救援活動を続ける一方、その拠点を活用しながら昭和24年、東京都新宿区戸山ハイツと茨城県水戸市備前町に、さらに、昭和26年には東京都世田谷区下馬にそれぞれネイバフッド・センターを作った。そして、その近郊に住む人たちが自分の持っている裁縫、珠算、書道等の特技を分かちあったり、子供たちの面倒を見たり、あるいは小さな図書館や勉強用の小部屋、安全な遊び場になるような便宜を与える場所を提供したのであった。  

水戸市備前町では幼稚園(現少友幼稚園)が再開され、世田谷区下馬には、昭和24年(1949)12月に、おともだち保育園を開いた。これが現在、普連土学園の奉仕活動対象施設でもある社会福祉法人日本フレンズ奉仕団所属の保育園の端緒となっている。


また、一方で
AFSCは、国際学生セミナーや国際学生ワーク・キャンプをフレンズ・センターで企画していた。だが、さらに、国内におけるワーク・キャンプの事務所を、世田谷ネイバフッド・センターや戸山ハイツ、ネイバフッド・センター内に置いた。その初代の主事となったのがジャクソン・ベイリー(Jackson Bailey:アーラム大学Earlam College元教授・普連土学園元理事)であった。普連土学園を何度か訪問、援助してくれた日系二世のクエーカー、ジョージ・オーエはフィラデルフィアで、AFSCの援助物資担当責任者となった(『ララ物資50年感謝の集い』資料集)。

(『下』につづく)