追悼:ベァティ・シロタ・ゴードン女史
マーガリット・フォックス(Margalit Fox)
1月1日付け、NYT紙の報告から
ロシア系ユダヤの両親を持つベァティ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)女史は、戦後日本の新憲法作成に当たり、女性の人権擁護に関する条項を単独で加えたことで、知る人ぞ知る功労者である。そのゴードン女史が、膵臓ガンがもとで去る12月30日、89才で亡くなった。
第二次世界大戦、日米の太平洋戦争で日本が降伏し、占領軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥がチームを組織し、平和日本の新憲法が草稿された。ベァティ・シロタは当時の委員メンバー最後の生存者だったので、これでマッカーサー元帥を始めチーム全員が他界したことになる。
新憲法の草稿に当たり、まだ22才だったベァティ・シロタの担当は、封建時代以来、日本の女性には一切与えられていなかった権利----つまり結婚、離婚、財産の相続に関わる法的な権利-----を与える条項を起草することであった。そしてそれが認証され発効となり、今日まで法的に日本女性を保護するに有効な条項となり綿々と継承されている。
その一事につき、コロンビア大学の日本歴史専門のキャロル・グルック教授(Carol Gluck)は、「あの法は、男女同権社会の基本精神です。でも、我々アメリカの憲法にも明記されていない『女性の人権』について、あの戦後の混乱期に、法律家でも学者でもない22才のベァティ・ゴードンが、日本の新憲法作成チームに参加できたのか、考えられません」と語っていた。
その疑問は尤もだが、それには充分納得できる理由があった。
その理由は、ベァティの父親が、当時知られたピアニストだったからではなく;彼女が日本語を理解する能力があったからではなく;戦時中、日本で生き別れになった両親を探すことを熱望していたからではなく;また、彼女が世界歴史に刻まれる名を残そうという意欲があったわけでもなかった。
また彼女が70才近くなるまで推進し続けた東西文化の架け橋になることを望んでいたからでもなかった。実際には、ベァティ女史は、アジアの芸術を初めて北米中の観客に紹介した一人であった。そのために、彼女はアジアで未開の各地を訪問している。
ベァティ・シロタ・ホレンスタイン(Beate Sirota Horenstein)は1923年10月25日、ウイーンで生まれた。父はレオ・シロタ(Leo Sirota)、母はオーギュスティン・ホレンスタイン(Augustine Horenstein)、ロシアからオーストリアに移住(亡命?)してきた。
ベァティが5才の時(昭和3年)、父のレオが帝国音楽学校(the Imperial Academy of Music:註:鈴木慎一が東京世田谷区に創設した学校だが、戦災で消滅。以後レオ・シロタは東洋音楽学校、現、東京音楽大学で教えていた。服部公一さん提供)から教授として招かれ、6ヵ月の予定で一家3人東京へ移った。間もなくレオ・シロタの名が広まり、教える傍ら演奏会出演も引き受けるようになり、10年以上滞在することになってしまった。
その間、ベァティは1930年代、東京のドイツ語学校に通っていたが、次第にナチ思想教育が強くなってきたので、それを嫌った両親の判断でアメリカン・スクールに転校した。1939年(昭和14年:註:ナチ軍がポーランドに侵攻し、第二次大戦が始まった)、ベァティが16才の誕生日(10月25日)を迎えた際、両親を日本に残し、カリフォルニア州オークランドのミルズ・カレッジ(Mills College)に進学した。
1941年12月、真珠湾攻撃で日米戦争が始まったため、ベァティは東京にいる両親との通信が途絶え、懐中が乏しくなった。彼女は学校から休学の許可をとり、それまでに身につけた、英語、日本語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語など、外国語の能力を生かし、サンフランシスコの政府機関で、東京のラジオを傍聴する仕事で収入を得た。日米戦が終盤に近づいた頃、彼女は合衆国戦時情報部門(United States Office of War Information)に移り、日本への降伏勧告声明の文書作成にたずさわった。
同時期の1943年、ミルズ・カレッジから近代言語学の学士号を取得して卒業、1945年1月にアメリカ市民権を獲得した。その7ヵ月後に日本が降伏したのだが、その時点でも両親の消息がつかめず、生死も判らなかった。
東京からアメリカへ:1947年 |
終戦直後は、アメリカ市民が日本へ渡航することは不可能だった。そこでベァティは先ずワシントンへ行き、マッカーサー元帥幕僚の通訳としての仕事を確保し、その年の12月、クリスマス・イヴの日に廃墟と化した東京に着いた。その足で両親の家に行ってみたが、そこは焼け跡で黒こげの柱が一本残っているだけだった。
結果的に、ベァティは両親と都外の(被災者?)収容所で再会したが、栄養失調でやせ細り弱っていた。彼女は両親を東京に連れ戻し、マッカーサー司令部の仕事を続けながら面倒をみていた。
当時マッカーサー元帥が焦眉の急にしていた仕事の一つは、戦後日本の新憲法を作成するという極秘計画であった。明けて1946年2月、1週間という期限付きで作成が始まった。24名の男性にたった一人の女性として参加した若いベァティ・シロタは、新憲法委員会で『女性の権利』に関する条項作成を受け持つ責任を負わされた。
ベァティの経歴から、その重任が与えられたのであろう。彼女は、育った時期の10年間に、日本女性の社会的な立場をつぶさに見聞してきた体験があり、彼女は日本女性の地位向上は必須条件であると痛感していた。
後年1999年、ベァティ・ゴードン夫人がダラス・モーニング・ニュース紙(The Dallas Morning News)に日本女性の社会的な立場について、「長い歴史を通じて、日本の女性は男の財産の一部として扱われ、売り買いされていました。彼女らには全く何の権利も与えられていませんでした」と説明している。
憲法作成の一週間、ベァティはジープを駆って、焼け残った東京の図書館へ通い、世界各国の憲法書を借りて読み漁った。ベァティは自らを叱咤して新憲法に取り組み、充分な睡眠もとれなかった7日を費やした後、2ヶ条の憲法提案の草稿をまとめて提出した。
その一つ、第14条は一部に「この憲法の下、全ての国民は平等で、政治的、経済的、社会関係において、人種、信条、性別、地位、血筋などの違いを理由に差別や偏見があってはならない」と明記されていた。
もう一つ、第24条には、「配偶者の選択、財産権、相続権、居住権、離婚その他、、、」を含めて女性は保護されなければならない、とある。
『日本国新憲法』は翌1947年に発効した。そしてその翌年ベァティ・シロタは、アメリカ情報局の通訳部長ジョセフ・ゴードン(Joseph Gordon)と結婚した。
1950年代、ベァティ・ゴードン夫人は、ニューヨークのジャパン・ソサイエティ(The Japan Society)の役員として参加し、舞台芸術部門のディレクターとなった。その地位を充分に活用し、数々の日本人芸術家(音楽家、芸能人、ダンサー、木版画家、茶人、などを含め)をアメリカに招聘した。
1970年には、ニューヨークのアジア・ソサイエティ(The Asian Society)のディレクターとなり、バリ島のガメラン・アンサンブル、ベトナムの操り人形芝居、モンゴールのダンサー、その他のタレントを数々招聘し、北米からカナダまで公演する機会を与えた。
夫のジョセフ・ゴードンは不動産開発業をしていたが、去る8月に亡くなった。二人の間には、娘と息子が一人ずつ、孫が3人いる。
ベァティは何十年も、戦後の日本のことについて多くは語らなかった。一つには当初、憲法作成計画が占領軍の極秘だったからだが、もう一つには、彼女が若かった頃を振り返ることを好まなかったこともある。だが本心は、彼女がアメリカ人の立場から、憲法改正を快く思っていない一部保守的な日本人と敵対したくなかったからだったようだ。
だが、1980年代の半ば頃から、ベァティは当時を回想して公開の場で話すようになった。また彼女の回想録『その部屋でたった一人の女性(The Only Woman in the Room)』は1995年に日本語で、2年後に英語で出版され、次第に日本での知名度が上がり、各地で講演し、テレビに登場し、半生記が舞台劇になり、『ベァティからの贈り物(The Gift From Beate)』と題するドキュメンタリー映画も作られた。
近年、日本の保守派から新憲法の批判を受け、それに対して情熱的に防御演説で応答している。
ベァティが受章した瑞宝章 |
1998年、ベァティ・ゴードン夫人は日本政府から最高の名誉である瑞宝章を授与された。しかし彼女にとって最も嬉しかったことは、日本の女性たちから受けた賛美や感謝の言葉の数々であろう。
1999年、ABCニュース(ABC News)のインタビューに応えて、「日本女性の皆さんは、私と一緒の写真を撮られたがり、握手を求めてきました。そして、『貴女のお蔭で、私たちの地位が向上しました』と感謝してくれました」と感激していた。
——————————————————
付記:1月3日付け、朝日『天声人語』は「ベアティ訃報」に関連して「、、、社会にも会社にも女性の力が求められて久しいのに、この国での進出は今もおぼつかない。企業や官庁に幹部は少なく、首長も議員も一握り。ある調査では男女の平等度は135カ国中の101位とお寒い限りだ」と言及していた。